しろくまカレーライス園 そこではみんながにこやかにカレーを食べてしろくまを見る (短歌の感想 その6)

しろくまカレーライス園 そこではみんながにこやかにカレーを食べてしろくまを見る
(溺愛「動物図鑑」神大短歌1号/2014.9)



 初句に提示されている「しろくまカレーライス園」というフレーズは独創的な固有名詞で、それに対してスペースを空けた二の句以降には「そこでは~」と「しろくまカレーライス園」についての説明になっている。これは言わば「問」と「答」の構文で、初句で提示された情報に対する読者の疑問が、二の句以降で明かされていくのである。あるいは大喜利的な作歌方法であると言えるかもしれない。
 「しろくまカレーライス園」という名詞に対して、「カレーを食べてしろくまを見る」というのはある程度想像がきく。読者にとっては予定調和的な安心感のある要素だ。また、「みんなが」というのも、まあ「園」なのだからそうなのだろうと思う。問題は「にこやかに」だ。この「にこやかに」という要素だけが、初句からインスピレーションを得た読者の予測の範疇を超えて、この空想上の「しろくまカレーライス園」に紋切りでない不思議な立体感と奥行きを与えているように思われる。表面的な情報に奥行きが与えられることではじめて、読者の中に「景」としての「しろくまカレーライス園」が、ほのぼのとした多幸感とともに立ち上がってくるのだ。
 この既知と未知の絶妙なバランス感覚が、この一首に単なる大喜利的なシュールな面白さに終わらない詩情をもたらしている。一見ただの奔放に見えて、その実とてもするどい言語感覚に掌られた一首であると思う。


 また、この一首の韻律に着目すると、まず初句が十二音、二の句が八音、そして三の句以降が五七七で、上の句に盛大な破調を内包している。特に初句の十二音というのが強烈で、ここまでくるともはや五音の枠に収めて読み下すことは不可能で、「字余りによって性急な印象を与える」といった技法では説明できるものではない。むしろ五音の枠をはみ出て溢れだすことで、「しろくま/かれー/らいすえん」という四・三・五の短歌定型とはまた別個の韻律が意識される印象がある。二の句の「そこではみんなが」は格助詞の「が」が韻律の上では余計で、一首をぎこちなくしているようにも見えるが、ここではおそらく韻律のスムーズさよりも、口語としての自然さや素直さが表現価値として優先されたのだろう。
 しかし、上に述べたような分析はこの一首全体の中での破調の意義や効能を説明するものではなく、あくまで局所的応急的な読みでしかない。一首全体に視野を広げると、むしろこの初句二の句の破調は、三の句に向けて徐々に収束して、三の句以降に定型へと復帰していくことを引き立たせて、さらに言えばその落差によって三の句の「にこやかに」を強調する効果を持っているのではないか。歌の内容だけでなく、韻律の上でも、やはりこの「にこやかに」というのがこの一首の核ではないかと思う。そう言った意味で、この一首の中で韻律と抒情というのは互いに連係しあっている。決して無意味な逸脱ではないし、また同時に決して単なるシュールでもないのである。




 21日(日)21時から溺愛さんをゲストにお呼びして稀風社配信をやる予定です。よろしくお願いします。

石井僚一「父親のような雨に打たれて」を読む

短歌研究 2014年 09月号 [雑誌]

短歌研究 2014年 09月号 [雑誌]

1.石井僚一さんについて

 石井さんとはこの前の九月の下旬にはじめてお会いした。それ以前にもUSTREAMでの歌会配信やtwitter等、インターネット上での関わりがあり、なんだかエキセントリックな人物だなという印象を持っていたのだけれど、実際会ってみるとなかなかハンサムな方で、知能が高く非常に頭の回転の速い好人物であったように思う。
 そうした彼の知性は彼の短歌研究新人賞受賞作であるところの「父親のような雨に打たれて」にも如実に生かされていて、「父」への「挽歌」であるという内容に対する先入観や外部文脈を排して読めば、読まれそして語られるためのクレバーな工夫が随所で機能していることがわかる。短歌の「連作」という媒体を、個別のテクストを混載した乗り物ではなく一個の自立し流通する作品に仕立てるというところの方法論に、彼がこの一連において示したかった問題意識というものがあったのではないかという印象を僕は抱いている。
 しかしながらこの「父親のような雨に打たれて」は、発表以来その「連作」をめぐる方法論ではなく、彼が作中において実父と実祖父の関係をモデルとして主体を仮構し、それによって「父の死」という物語を演出したことについて、その是非を含めて大きな注目が寄せられている状況である。こうした現状はおそらく石井さんの当初の意図とは大きく外れた状況なのだろうと思うが、そういった読みをされることを製作の段階で想定して配慮できなかったという点で、この「父親のような雨に打たれて」は、言わば「失敗作」とでも評すべきものなのだろう。石井さんの想定以上に短歌という詩型は読者の共感を強く喚起するものであるし、またさらに強い共感の磁場を持つ「挽歌」という形式をとったことも、彼自身の問題意識を提示する上では大失策であった。*1
 とはいえ、この石井僚一という歌人は、この「父親のような雨に打たれて」の一連によって世に送り出されたのである。何かにつけてこの「失敗作/受賞作」に紐付けて語られてしまうであろうことには同情できる部分もあるが、あるいは彼にとってこの作品は、背負うべき十字架になっていくのかもしれない。彼自身に知性と才能があることは間違いないので、なんとか上手い背負い方を見つけていってほしいと思う。



2.虚構を詠むということ

 石井さんに限った話ではないが、短歌において〈私〉の存在を打ち消そうとしてみたり、作中の〈私〉を仮構することで歌の内容を真実性から引き離したいという意思の根っこには、多くの場合作者の自己否定感が横たわっているように思う。等身大の〈私〉に表現価値を見いだせないからこそ、それを打ち消したり、ありうべき〈私〉を仮託した他者に成り変ってみたりするのではないか。それ自体は批判されるべきものではなく、人間が成熟する過程に負うある種普遍的な苦しみや痛みの表出なのだろう。
 「父親の~」の中で石井さんは、「死の間際の祖父をみとる父の姿と、自分自身の父への思いを重ねた」(2014/7/10道新朝刊)のだそうだが、「思いを重ねた」の解釈が難しいが、おそらく「父の死を看取る自分」、あるいは「もしも実父が死んだら自分はどのような内心の変遷を辿るだろうか」という仮構が彼自身の中で組み上がっていったのだろう。「〈私〉→(父→祖父)」というような彼の主観からの認識に忠実な形式での描写をとらなかったのは、やはり彼自身の中に〈私〉の「父への思い」という内心の情を率直に語れないある種の屈託や自意識があって、それが忌避させてしまったものであるかもしれない。
 なんにせよ、その仮構は〈私〉の内側で組み上がって拡張されていった、言わば仮想された〈私´〉とでも定義すべきものである。〈石井僚一〉では彼が語れないものを、〈石井僚一´〉に仮託して語らしめたというのがこの、「父親の~」の外部構造であると言える。
 短歌に限った話ではなく、作中主体がフィクショナルな存在であったとしても、その主体が作者の人格から全く逃れた存在であると言える例はそれほど多くない。むしろ、それが虚構であるからこそ、作者の理想であったり願望であったり、あるいは反駁の対象だったりといった構成要素を如実に反映していると考えるべきだろう。だから、主体や設定が虚構であったとしても、語りの内容までも作者に紐付かない虚構であると一緒くたに断じて「騙された!」と言ってしまうのはいささか安易である。
 ただ、短歌研究2014年10月号に掲載された「虚構の議論へ」において加藤治郎氏が「虚構の動機がわからない」と疑問を呈していたのは全くもっともで、この虚構は石井さんが、新たな方法論の提示や前衛短歌の流れを引いた問題提起を目的として積極的に行ったものではなく、まして読者や選考委員を騙そうという悪意があったわけでもない。「虚構性の可能性を追求する作者」という短歌2014年11月号誌中における黒瀬珂瀾氏の評価も、今の石井さんについては過大評価であると言わざるを得ない。あれは彼の自意識の屈託が消極的に選ばせた手法でなのである。もしかしたら自覚的ですらない、手癖のようなものであったかもしれない。*2



3.「老人」と「父/父親」と「あなた」

 「父親の~」の中で最も特徴的で、かつ効果的であったろうと思われるレトリックが、作中主体が父との相克を乗り越えていく過程で父親の人称が「老人」から「父/父親」を経て「あなた」まで変化していくということで、さすがに最後の「あなた」は大袈裟すぎるのではないかという気がするが、これを作者曰く「慌てて練り上げた」(「虚構の議論へ応えて」短歌研究2014年11月号)と言うのだから本当ならば恐れ入る。

「スピードは守れ」と吐きし老人がハンドルをむずと握るベッドで
己が青春に造りし道路を守らんと徘徊老人車に開(はだ)かり
父危篤の報受けし宵缶ビール一本分の速度違反を
遺影にてはじめて父と目があったような気がする ここで初めて
傘を盗まれても性善説信ず 父親のような雨に打たれて 
ネクタイは締めるものではなく解くものだと言いし父の横顔
助手席の永遠の行き場所とする法定速度遵守のあなたの

 多いのですべてを引用したわけではないが、「父の死」という事柄をきっかけとして、父との相克を乗り越えていく作中主体が描かれている。特に作中主体が相克の深い「父」の存在を受容する瞬間が、「傘を盗まれても~」の表題歌になっており、三十首一連で読ませるとても計算された巧みな構成だ。また、「父危篤~」の歌ではじめて「老人」が作中主体の父であるということが明かされるという序盤の構成も、読者を一気に物語へと引き込んでいくような効果を持っている。やはり「謎が明かされる」過程というのは読者にとって愉しいものだ。
 これらの仕掛けはどれも言ってみれば散文で物語る際の技法であって、やはり石井さんの本来の問題意識の主眼が、「連作で物語る」こと、あるいは「散文の理論で短歌は可能か?」という問いにあったのだという僕の確信はこのあたりにある。
 けれどもこうした仕掛けは、作中主体の年齢を作者である石井さんの年齢(25歳)であるという先入観のもとで読んでしまうと、うまく機能しなくなってしまうという問題がある。実際、僕がtwitter等で見聞きする限りでも、この「老人」が「父親」であるとは読めなかったという声は少なからずあった。

祈るしわくちゃの手に囁くように「いただきます」と「ごちそうさま」と

 という歌があるので、冒頭一首目の「「スピードは~」の「老人」が主体による過剰な形容であるとは読み取れず、やはり実際に手がしわくちゃになるほどに年老いた老人がいるのだということになる。おまけに「徘徊」までしているのである。
 また、それでは作中主体と父親は50歳近く年齢差のある親子ということでいいじゃないか、という解釈もできそうだが、その方向性も「ネクタイは~」の一首の存在が阻んでしまう。この歌に出てくる「父」は中~壮年期の、道路建設か何かに従事していた頃のもので、「ネクタイは締めるものではなく解くもの」というのは、「父」の意味深な生きざまであるともとれるし、あるいは高度経済成長期のブルーカラー労働者に普遍的な「ネクタイ」観であるのかもしれない。なんにせよ、その姿を記憶にとどめている主体が、20代の若者であるというのにはどうしても無理が生じてしまう。
 しかし、それよりも僕が問題にしたいのは、末尾の歌の「助手席を永遠の生き場所とする」である。水筒が振り回されるほどの深い相克の後に作中主体が辿りついた結論が、こんなものでいいのか。選考の中で穂村弘氏が「僕は永遠にあなたの子供ですよということですよね」と述べているが、そんなものははっきり言って「お母さんありがとう」系HIPHOPと同レベルだろう。結局のところ主体は父の存在を乗り越えることができず、父の死後もなお、「永遠に」服従していくというのである。これはこの作品一連の作中主体〈石井僚一´〉の問題でもあり、当然その生みの親でもある〈石井僚一〉の問題でもある。「虚構の議論へ応えて」の中で石井さんが「僕はその果てで父の死は想像しえないことを学んだ」と述べているのは、つまるところそうした仮想上での相克の限界なのではないかと僕は思う。



4.「法令順守」と「性善説」をめぐって

 「父親の~」を一読して僕にとって最も気になったことは、この作中に出てくる親子が、異常言って差し支えないほど、道路交通法という法規範に強く執着していることである。特に「スピードを守る」ということについてのこだわりは、単なる善良の領域を逸脱して、幼児的な盲執であるとさえ思える。

「スピードは守れ」と吐きし老人がハンドルむずと握るベッドで
己が青春に造りし道路を守らんと徘徊老人車に開(はだ)かり
父危篤の報を受けし宵缶ビール一本分の速度違反を
助手席を永遠の生き場所とする法令速度遵守のあなたの

 おそらくこの作中主体は、父の生き方を肯定し受容するよすがとして、この道路交通法遵守への強い執着に美点を見出しているのだと思われる。そして本人もまた、父危篤の報を受けて、急いで自動車を走らせて駆けつけた際に速度違反をしてしまったことを気にしているようで、こうした執着点の一致に逃れ難い血の繋がりというものを感じているのかもしれない。*3
 しかし、それは本当に愛すべき美点なのだろうか。二人の関係の全くの部外者である僕は、強く疑わざるをえない。スピード違反をしたほうがいいというのではなくて、この父親というのは、些細なことに異様なまでの執着を抱いていて、さらにたちの悪いことには、そのこだわりを他者に対して押しつけてしまう人物なのだ。呆けてしまって徘徊していてもなお、スピード違反と思しき自動車を見るや、それに立ちはだかってしまうほどなのだから、周囲もほとほと迷惑していたに違いないと思う*4。そしてこれは僕の想像を含んでいるが、作中主体はそういった父の異常さに対して反抗していたのではないか。なのにそこを、父が死ぬやいなやあっさりと呑み込んで受容してしまうというのは、僕にはどうも納得がいかない。
 さらに釈然としないのが、この父親の「法令速度遵守」への執着が、「性善説」に結びつけられていることである。

傘を盗まれても性善説信ず 父親のような雨に打たれて

 この歌における「性善説」は、おそらく「父親」の生きざまに紐付けられているのだが、上に述べたような父親像というのは、明らかに「性善説」とは逆の信条を持った人物なのではないか。「法令順守」と「性善説」はイコールで結ばれないどころか、真逆の概念でさえあるように思われる。そもそもこの父親は、他者の善性を信じていないからこそ、自分は頑なに法規範にこだわり、他者に対しても同じことを求めているというふうに解釈せざるを得ず、これは明らかに「性悪説」的な生き方なのである。
 また、「法令順守」を無批判に「善」であると結びつけてしまう作中主体にも思慮の浅さを感じざるを得ない。法令を守っているから善だ、あるいは法令に違反するから悪だ、という世界観は、世界に対する多面的な視座を欠いていて、大の大人のものとは思えない極めて幼稚なものだ。作中主体〈石井僚一´〉は読み取る限りではおそらく50歳前後の人物であり、これほど幼稚な世界認識を持った50歳代の男性というのが、本当に実在しなくて良かったと僕は心から思う。*5



5.失敗作と新人賞

 上に述べたような「父親の~」をめぐるいくつかの矛盾点は、「父と息子の相克」という主題の根幹に及ぶものであって、この作品が「虚構」という形式をとったことに対する是非以前に、そもそも「虚構」としてあまりにも詰めの甘い部分が目立つというように結論づけざるをえない。真実であるという担保のないフィクションにこそ強く求められるはずのリアリティが、いくつかの点で致命的に欠けている。一方で、この作品を作者の実生活に基づいたノンフィクションであると捉えると、なおさらこの作者=〈私〉には評価できない致命的な思慮の浅さが見えてしまうから、どのみちこの作品は本来評価に値するものではない。
 僕はこの作品を誌上で一読したときに、なんとなく不自然で嘘が混じっていると感じたし、むしろどうか虚構であってくれとさえ思った。肉親の死に対してこんなに理解しがたい内心の動きを示すような人には短歌をやっていてほしくない。だから内幕を聞いて正直ほっとしたところが大きいのである。
 では一体なぜ、この作品が不幸にも受賞作になってしまったのか。それはやはり、選考過程のオープンにされている部分を見る限りでは、「挽歌」だったからだと言わざるを得ないだろう。「挽歌」というだけで選考委員諸氏の共感バロメータの針が振り切れてしまい、適切な読解と正しい判断ができなくなってしまったのだろう。そう言う意味で、「挽歌」+「虚構」+「新人賞」というのはまさに混ぜるな危険の組み合わせで、これを偶然の差配で、一定以上の完成度で作り上げてしまった石井さんという人物は、何か持っているのかもしれない。
 僕は以前石井さんに「父親の~」の感想を問われた時に、「心に残った歌は何も無かった」というようなことを失礼ながら言ってしまって、石井さんはナイスガイだから笑いながら「そうですよね~」と返してくれたのだが、実は一首だけいいなと思った歌がある。

コンビニの自動ドアにも気づかれず光として入りたくもなる

 「光」に仮託された静謐な抒情があり、それと同時にその静謐を許さない「コンビニ」という常に音と光を放ち続ける消費空間がある。一連の中でこの一首だけはなぜか、〈私〉を仮構するのではなく〈私〉を打ち消す方向に強いベクトルを持った歌で、〈私〉の存在感を消したいという強い希求が、ただコンビニに入るというだけの行為でもそれを「光」に託させようとしてしまう。自動ドアが自分を察知して開く瞬間というのは、否応なく自分が自分としてここにいるということを認識させられる瞬間なのだ。また、「ひかりとしては/いりたくもなる」という下の句の句跨ぎが印象的で、屈折した心情、あるいはコンビニのガラス窓に屈折する光を思わせる。
 そうした〈私〉を打ち消したいという希求はネガティブな自己存在への嫌悪感に基づいたものであり、同時にか細いSOSの声でもある。都市的な消費空間の光景に、通奏低音として流れ続けているかすかなSOSである。
 こういう歌が詠めるのだから、彼はたぶんうまくやっていくだろうと思う。作品に対してはともかく、決して作者に対して分不相応な賞が与えられたわけではないはずだ。

*1:この「父親の~」という作品は、あるいは読む人の共感能力の高低を測るリトマス紙のようなものであるかもしれない。もしかすると、誰かの肉親の死に際しての心境を綴った作品に「失敗作だ」なんて、よほど共感能力が低い人でなければ考えもしないのかもしれない。

*2:石井さん自身が「父の死」を騙ることを重大なことだと認識していなかったから、「受賞のことば」等の場で明かされなかったり、あるいは実父の存命を隠蔽するようなこともなされなかったのだろう。

*3:しかし、無粋なツッコミが許されるのならば、速度違反よりも飲酒運転のほうを気にしてほしい気もする。

*4:これも無粋なツッコミであるが、徘徊ボケ老人がいきなり立ちはだかってきたせいで不運にも人殺しになってしまった当該ドライバーには深い同情を禁じえない。

*5:しかし、この50代男性に新人賞を授与するつもりだった方々がいるらしい。

終わらせてしまわぬように知っている海の名前をひたすら挙げる (短歌の感想 その5)

久しぶりの更新ですが、5月の文フリの収穫本から一首。
今更感がすごいですが文フリお疲れ様でした。お蔭様で『海岸幼稚園』なかなか売れました。お越しくださった皆様ありがとうございました。

終わらせてしまわぬように知っている海の名前をひたすら挙げる
佐々木朔「往信」(『羽根と根 創刊号』(2014/羽根と根)所収)より

同人誌『羽根と根』より一首。


 「終わらせてしまわぬように」というのは何かこう、たとえば一方的に思いを寄せる人との会話だったり、とにかくこの瞬間、この関係性が一秒でも長く続いてほしいというような願いがあるのだろう。しかし、そうした思いとは裏腹に、作中主体の発話は視野狭窄ゆえに一方的に空回りして独り相撲になって、とうとう会話は袋小路に陥ってしまった。
 どういう経緯かはわからないが(たぶん作中主体もどうしてこうなったんだ……という気持ちだろう)、作中主体が話し相手に対して一方的に自らの知っている海の名前をひたすら列挙するということになってしまう。一般に自らの知識を一方的にひけらかすという行為は、会話の中で歓迎されない。その歓迎されない空気を作中主体もまた感じ取っているからこそ、彼は既にはっきりとした終わりの予感の中にいる。そして、海の名前が出てこなくなったら最後、この関係性は終わってしまうのだ。しかし彼にできることは、ひたすら己の知識の中に潜り、海の名前を拾い集めることしかもはやできない。ベーリング海アゾフ海、紅海、カリブ海……
 この歌はそうした終焉と敗北を宿命づけられた闘いの構図であり、またある種の不器用な人々にとっての青春のほろ苦い光景なのだろう。随分と深読みを試みてしまった気がするが、それは僕自信にとっても非常に身に覚えのある感覚がこの一首から呼び起こされたからだ。


 また、「知っている海の名前をひたすら挙げる」のような繰り返しの発話や行為というのは、それ自体が原初的な祈りや呪術に近いものだ。何かひとつの呪文や題目を繰り返したり、あるいはお百度参りなどのように同じ行為をひたすら反復するようなとき、それはある種のトランス状態をもたらし、発話や行為はそれ自体の意味を剥ぎ取られ、祈りとしての儀式性や呪術性を帯びるのかもしれない。上に引用した歌においても、作中主体は「知っている海の名前をひたすら挙げる」ことにより、よりいっそう視野を狭め自分の中の深みに陥り、皮肉なことに会話の相手の存在はどんどん遠ざかってしまうような印象を受ける。


 同じ作者の歌にはこのようなものもある。

朗読をかさねやがては天国の話し言葉に到るのだろう
佐々木朔「往信」(『羽根と根 創刊号』(2014/羽根と根)所収)より

 この歌も同様に、朗読という発話行為が、それをひたすら繰り返すことで本来の意味を剥ぎ取られ、何か別次元の高みに到るという神秘的な可能性を提示している。あるいは、そうした可能性を想起させるほどの、ひとつの美しい朗読の光景があったのだろう。こうした美しい瞬間に際して、それを写真的に瞬間を切り取ることで美を保存しようというのではなく、むしろその瞬間を繰り返しループさせ引き延ばすことで、いわば遠心分離器にかけるようなやりかたでその光景の美を抽出しようとするような手法であると言えるかもしれない。「至る」ではなく「やがて~到る」というのは時間的な意味での到達で、短歌定型の中にこうした遠未来的な時間の想像力を付与する鍵として機能しているように思われる。






 最後に蛇足になりますが、佐々木朔さんをお呼びして、本日(7/29)22時より稀風社配信をやります。よろしくお願いします。
 

子守の人間は来ないよ 綿棒を捻じ曲げると曲がることを知る (短歌の感想 その4)

 文学フリマお疲れ様でした。いろいろ思うこともあったけどそれはそれとして後で書けたら書く。

子守の人間は来ないよ 綿棒を捻じ曲げると曲がることを知る
ハチ (『メンヘラリティ・スカイ』より)

 今回の文フリも短歌のサークルが短歌の本をいっぱい出していたけど、短歌とは全然関係ない界隈の本になぜか掲載されていたハチ(@08dog)さんと木野誠太郎(@kinosei)さんの短歌連作「メンヘラリティ・スカイによせて」がわりと良かったので、たぶん界隈に顧みられないだろうなと思ったので久しぶりにここで取り上げたい。それにしても、なんでよせちゃったんだろう。背景はわからないけど全体的に不思議な本だなと思った。


 この本を通底するテーマとして「メンヘラ」というのがあるらしいのだけど、上に引用した歌はなんていうかいい意味で「メンヘラ」的な自意識を少しメタな視点で不愉快な感じじゃなく描けていると思う。
 「綿棒を捻じ曲げると曲がること」というのは当たり前のことで、たぶん想像力が人並みにある人だったら知ってなかったとしても予想できる類のことだと思うのだけど、そういう人並みの人にとっては当たり前のことでさえも、自分で試行して、学んでいかなければならない。なぜならそれは「子守の人間」が「来ない」から。
 「子守の人間」の有無というのは要するに外的環境で、外的環境/関係に恵まれなかったがゆえにそういう認知の仕方をしていかないといけないんだというようなことだと思う。そしてそういう自己をメタ的に認識している。だから「子守の人間は来ないよ」は言わば作中主体の心象における科白で、自分の境遇を自分自身に言い聞かせることで認識を強化させている、といった感がある。
 それでもこの歌には自嘲的な響きが薄くて、むしろ「知る」こと、人並みならば躓かない些細なことをひとつひとつ学んでいくということへの前向きな意識も同時に匂わせるような、どこかフラットな地点にうまく着地できているのがいいと思う。「ネガティブな自意識」をテーマに据えて自嘲的にならないのはたぶん結構難しい。


 もう一人の、木野誠太郎さんの作品は、ハチさんが「メンヘラ」に対して内側からのアプローチをかけているのに対して、表層からのアプローチを意識してるのかなと思って、その対比がなかなか面白かった。

避妊具の袋やぶりて0.02ミリの壁に染められし冬
木野誠太郎 (『メンヘラリティ・スカイ』より)



 上に引用した歌なんかは着眼点が面白いなあと思った。確かにコンドームの色に染まった男性器というのはなかなか異様なものだけれども、そこに「冬」が来ることで一気に身体感覚が一首全体に宿る感じがする。平たく言うと寒い。孤独だ。それを「壁」と形容したことも、「れいてんれい/に」のところで句跨ぎをしているのも張りつめた感覚を強化していて技巧的だと思う。「れいてんれい」なんかは音自体がなんか冷たいし、身体的な歌なのに冷たいモチーフしか出てこないのが良い。
 ただ、「やぶりて」にすごく作中主体の意志というか主体性が見られるのに対して、「染められし」という過去に対する客観的な描写になってしまっているのはすごくバランスが悪いと思う。同じ身体が現在と過去に切り離されてしまったかのような居心地の悪さを覚える。「やぶりて」を生かすのであれば結句は「染められよ」とかにしたほうが一貫していると思うし、逆に「染められし」の客観のほうを生かしたければ、二の句は「やぶれば」程度に留めて身体を突き放してあげた方が良かったんじゃないかなと言う気がする。
 

第17回文学フリマ告知

 サークル名「稀風社」で今回も出展します。新刊は『稀風社の薄情』です。薄い本なので薄情です。内容は主に短歌をめぐるリレーエッセイで、自分も短歌について、というよりも「稀風社」についての文章を寄稿しています。頒価は300円の予定。


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 表紙は.あいあ(@dot_aia)さんが描いてくれました。「『薄情』なので薄情な女の子をください」と無理難題をふっかけたらほんとに薄情な女の子が出てきたので、やっぱり.あいあさんは天才だ!どこかのお金持ちに.あいあさんのパトロンになってあげてほしい!と思いました。すばらしい。


 また、今回は新刊本既刊本どれでも1冊以上お買い上げの方に、僕と三上春海さんと情田熱彦さんの短歌を掲載した、稀風社ブックカバーとしても使えるフリーペーパーをさしあげます。ブックカバーを作るのは僕の小さな夢のひとつだったので、出来栄えが今から楽しみです。要らないと言う人には無理に押し付けたりはしません。
 画像小さいですがだいたいこんな感じのやつです。
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 ブースはウ‐33です。詩歌ジャンルの密集地帯です(怖い)。
 当日は僕と三上さんと情田熱彦さんと.あいあさんが入れ替わりで誰かしらブースにいる予定です。宜しくお願いします。

父が以前住んでましたと言いかけてやめて鍋へとなだれるうどん (短歌の感想 その3)

父が以前住んでましたと言いかけてやめて鍋へとなだれるうどん
中村美智 (『北大短歌 創刊号』より)

 4月14日の文学フリマで買った本をちまちま読み進めている。その中から一首。


 複数人で鍋を囲む座の光景が浮かぶ。「うどん」が鍋へと投入されるということは、その座も佳境に差し掛かっていると思われる。ふいに話題はどこかの街や地方のことに及び、そこに作中主体は「父が以前住んでました」と口を差し挟みかけて、でもやっぱり口に出すのをやめてしまう。複雑で膨大なコミュニケーションの網の目の中にあって、決して表出することのない、コミュニケーションの澱のような内的な事象が詠まれていて面白い。「住んでました」と丁寧語が用意されていることからして、その座には先輩後輩とか教師と教え子とか、既にフラットでない関係性(社会)があるのだろう。
 「父が以前住んでました」ということを結果的に言わないという選択がなぜ導き出されるかといえば、やはりそれはその事実を提示したところでそこからの話題の広がりに欠けるからだろう。単純に耳に入った何らかの地名から作中主体にとってはすぐさま連想されることであっても、その情報が今いる座にとってどんな意味があるのか、どういう効果を与えるのか、ということを口から出す前に一旦咀嚼したうえで、言わないことにしているのだ。こういうコミュニケーションへのメタ的な感覚というのを世の中の人たちがいったい何歳ぐらいで身に着けるのかよくわからないけれど(僕はすごく遅い方だったと思う)、作中主体の精神年齢のようなものを窺い知ることができる。
 座の全景を見渡せる一方で、そこから切り捨てられていく澱のような思考たちをすぐさま忘れ去ることができないというような、そういう過渡期のような時期はたぶん誰しもあるんじゃないだろうか。それは人が成長していく中ではきわめて短い一時期で、人の一生の中ではきわめてレアシーンとでもいうような瞬間が、うどんが鍋へとなだれ込む一瞬のイメージとともに切り出されている。


 また、口語体の短歌において、科白にあたる部分にカギカッコをつけるべきかとか、そういう短歌における記号の使い方全般の話として、この歌では“父が以前住んでました”がカギカッコで囲われていないことが効果的に作用していると思う。
 カギカッコで囲われた科白というのは、散文的というか、作中主体を経由していない、詠み手による直接的な情景描写、あるいは説明というふうに読まれてしまう。例えば、

「酔ってるの?あたしが誰かわかってる?」「ブーフーウーのウーじゃないかな」
穂村弘『シンジケート』より

とかが会話体の歌として有名だけれど、この歌の良し悪しはさておき、カギカッコがあることで、歌の外側にどうしても情景の観察者、あるいは創作者としての詠み手の存在が透けて見えてしまう。
 “父が以前住んでました”がカギカッコで囲われていないということは、それが実際に発話されていないということもあるけれど、それ以上に、「一度作中主体の内部に取り込まれてから、改めて想起されている」という読みにうまく導けていると思う。この歌全体が同時進行的な情景描写なのか、あるいは事後的な記憶の想起なのか、という違いは、この歌のニュアンスを大きく変えるだろうし、僕はこれを「想起」として読んだほうが味があっていいなと感じる。
 初句の字余りはそれほど気にならない。「言いかけて/やめて」で句を跨いでいるのは技巧的だし、「やめて鍋へとなだれるうどん」の下の句もすごくなめらかで気持ちがいい。

NoFuture,NoFutureと口ずさむ白いベースを売りにゆく道 (短歌の感想 その2)

NoFuture,NoFutureと口ずさむ白いベースを売りにゆく道
遠野サンフェイス『ビューティフルカーム』より

 遠野サンフェイスさんは主にツイッターtmblrなどで短歌を発表されていた(現在は休止中?)方で、私家版の写真歌集『ビューティフルカーム』は、単語カードの形態で2011年6月の文学フリマで頒布されていたもの。さらに作者の背景を遡れば下品短歌とかそういう文脈がいろいろ出て来るがここではその説明は省きたい。


 上に引用した歌は青春の歌だ。
 まず際立つのは「NoFuture,NoFuture」の引用の巧さで、これはむろんSEX PISTOLSの「No Future」なのだけれど、短歌全体の中で引用された歌が有機的に機能していてとても綺麗だと思う。さらにいうとこの「白いベース」はおそらくシド・ヴィシャスモデルのフェンダー・プレシジョンベースで、たぶんそんなに高いわけでもない、どこにでも売っているような楽器だ。そういうところまで含めて、とても端正で無駄のない、一首全体の中で強い必然性を持ち得ている引用だと言えるのではないか。その「白いベース」を売りに行く。要するにありふれた青春の、ありふれた終幕だ。
 けれども、「No Future」という詞とは裏腹に、青春という物語が幕を下ろしても、その先には茫漠とした人生の余白が続いていく。「白いベースを売りに行く道」はその茫漠とした余白へと連なる道で、作中主体はその終わりのない平坦な未来を目視しながらも、そこへと向かってただぼんやりと歩んでゆくしかない。そこには前向きな覚悟というよりも、受動的な諦念を強く感じる。口ずさまれる「NoFuture~」もまた、どこか物悲しい風景を象っている。

ねえ僕は夕映えによく似合うこの曲をいつまで歌うのでしょう
遠野サンフェイス『ビューティフルカーム』より

 思うに、青春というのはきっと、それを自覚した瞬間に終わってしまうようなものなんだろう。だからそこには常に特権性があって、ノスタルジーがある。