2019年の短歌まとめ

 いつもお世話になっております。  1年ぶりの更新ですが、今年は去年に輪をかけて短歌を読めていません。すみませんでした。


 読めなかったなりにやっていこうと思います。よろしくお願いします。

 

ほっといた鍋を洗って拭くときのわけのわからん明るさのこと

/山階基『風にあたる』(短歌研究社 2019.7.23)

 

 先に言ってしまうと、今年は『風にあたる』と『光と私語』の年だったなあというふうに個人的には思っていて、この2つの書物が出たことは後に一種のパラダイムシフトのように言われるんじゃないかという気がする。それがいいことなのかどうかはわからないけど。

 具体的にどうしてそうなのかというと、この2つの歌集は明白に、口語短歌の文体構築における一般解をそれぞれ提示したと言えるのではないか思うからで、口語短歌の個人技と一回きりで使い回せない一発ネタの死屍累々の歴史の中から、普遍的で一般的な方法論が徐々に立ち上がりつつあるのではないか、ということをずっと思っていたのだけれど、やっと今年になって物質的な書物として出てきたんじゃないかと思う。また、それによって、口語短歌はこれからどんどん個人技ではなくなっていくし、これからの10年ぐらいで良きにつけ悪しきにつけ具体的にその方法論が体系化されていくだろうという気がする。

 『風にあたる』の話に戻ると、山階さんがやっている(やってきた)ことというのは、基本的に<わたし>と<(他者)>、あるいは<(事物)>、この三者それぞれの間に立ちあらわれる空間像、およびその空間そのものの構成であると思っていて、これをものすごく雑に言うと「関係性」を書くのだということになるのだけれど、こういう空間構築そのものをゴールに設定して文体を構築する、という制作や読みの方法には一定の普遍性というか一般化への可能性がある。逆に読み手はその構造に気付いていないと、ほんらい読む必要のない文脈や物語を勝手に読み出だそうとしてしまい、結果としてつかみどころのない印象や関係が錯綜した印象を抱いてしまうのだけれど、すでにそうではない読者層、というものもまた生じつつあるのではないかと思う。

 この方法論の普遍性はすごくて、例えばそれは<わたし>と<鍋>の間にも成立しうる。引用した歌にしても、単純な主観的な把握に基づく実景、というふうに読むよりも、<わたし>と<鍋>の間に成立する空間像、というふうに捉えた方が、受けとめ方としてより正確なのではないかという気がする。この認識は先月に『風にあたる』の批評会に行ってさらに強くなった。

ここはきっと世紀末でもあいている牛丼屋 夜、度々通う

/𠮷田恭大『光と私語』(いぬのせなか座 2019.3.19)

 

『風にあたる』の一般解の話と比べると、『光と私語』のそれのほうがわかりにくいかもしれないけど、個人的にはこちらのほうにより高い親和性を感じていたりする。

 この歌も初出はたぶんそうとう前で、すでにある程度の人が知ってる歌なんじゃないかと思う。で、ここで言われている「牛丼屋」への憧憬ってすごくフラットで非人間的で余計なものがなくてすごくいいですよねという話なんだけど、こういう「事物にフォーカスする」という方法論もありえると思っていて、『光と私語』の歌の多くはそういう形で文体が築かれているという印象を持つ。要するに、事物がメインで<わたし>はそのときあくまでも観察する装置以上の振舞いをしない、最終的には事物に焦点が合うように構成するということなのだけれど、これもひとつの一般解で、いろんな場合に敷衍可能だと言えるのではないか。

あなたにも感情があるということを冬は忘れてしまいたくなる

/水沼朔太郎「飛び込んでくる」(『稀風社の水辺』稀風社 2019.11.24)

 

 冒頭に書いた通り、今年はぜんぜん短歌を読めてないのもあって、自分のところで出した本からになってしまうのだけれど、本当にいい歌だと思うので入れます。

 「あなたにも感情がある」と言われると、反射的に「感情がひとりのものであることをやめない春の遠い水炊き」(堂園昌彦)を連想してしまって、それはたぶん他者であるということの絶望的な絶対性という主題を共有しているからだと思うのだけれど、水沼さんの歌も「忘れてしまいたくなる」と言うことで、その忘れえなさ、逃れられなさが強まるなあという気がする。二句目「感情がある」だけちょっと圧が強まる感じもそうさせて、結果的には冬のわびしさと絶望的な他者性、だけが残る気がする。

 なんというか、水沼さんは急に本当のことを言いだすのでびっくりするみたいな印象があって、この歌も連作の中で出会ったほうがより鮮烈な感じになるのではないかと思う。

会社員に一発ギャグは必要ない でも憧れる一発ギャグに

/中村美智「ベター・ザン」(「羽根と根」第9号 2019.11)

 

 なんというか、最近「一字開け」のことをよく考えていて、一字開けにもいろんな一字開けがあるなあと思うのだけれど、こういう一見不要な、でもどう考えても読みに深い影響を及ぼしまくっている謎の一字開けみたいなものを目にする機会が増えたような気がする。

 この歌はそもそも下句が倒置でなければ一字開けがなくても一首が成立するように思える(例:会社員に一発ギャグは要らないけど一発ギャグに憧れている)けど、そうしないほうが圧倒的に良い。でも、この一字開けによって語りの位相が変化しているかというと、していなくて、引き続き同じトーンで同じ話をしていると思うし、そこに書かれていない文脈が表されているようにも読めない。しいて言うなら一呼吸置くことで「でも」のニュアンスが強まるかなという気がする程度なのだけれど、それだけでは説明できないくらい、この一字開けには引きこまれてしまう。なんというか、「深淵」とでもいうべきか、虚無への穴がそこに開いているような印象を受ける。謎すぎる。

 

なにそのリュック コンセントじゃん笑 けれどもう化粧のような青梅の夕べ

/温「居酒屋から」(https://twitter.com/mizunomi777/status/1091750237696253952?s=21

 

 歌会で出会って気になったというか、面白かった歌。コンセントみたいなやつが縫い付けてあるリュック、たしかにある。「けれどもう」からの展開がツボに入って笑ってしまう。なんというか、「一方そのころブラジルでは!」みたいな勢いの強引な展開の仕方だ。

 「化粧のような」も「青梅の夕べ」も、わかるような、わからないような、でも笑ってしまう。でもやっぱり、青梅の都心よりずいぶん近い山並みがいちめん夕焼けに染まってる感じもわかる気もする。

 

以上です。まだ読めてない本とかも来年頑張って読みます。良いお年をお迎えください。