子守の人間は来ないよ 綿棒を捻じ曲げると曲がることを知る (短歌の感想 その4)

 文学フリマお疲れ様でした。いろいろ思うこともあったけどそれはそれとして後で書けたら書く。

子守の人間は来ないよ 綿棒を捻じ曲げると曲がることを知る
ハチ (『メンヘラリティ・スカイ』より)

 今回の文フリも短歌のサークルが短歌の本をいっぱい出していたけど、短歌とは全然関係ない界隈の本になぜか掲載されていたハチ(@08dog)さんと木野誠太郎(@kinosei)さんの短歌連作「メンヘラリティ・スカイによせて」がわりと良かったので、たぶん界隈に顧みられないだろうなと思ったので久しぶりにここで取り上げたい。それにしても、なんでよせちゃったんだろう。背景はわからないけど全体的に不思議な本だなと思った。


 この本を通底するテーマとして「メンヘラ」というのがあるらしいのだけど、上に引用した歌はなんていうかいい意味で「メンヘラ」的な自意識を少しメタな視点で不愉快な感じじゃなく描けていると思う。
 「綿棒を捻じ曲げると曲がること」というのは当たり前のことで、たぶん想像力が人並みにある人だったら知ってなかったとしても予想できる類のことだと思うのだけど、そういう人並みの人にとっては当たり前のことでさえも、自分で試行して、学んでいかなければならない。なぜならそれは「子守の人間」が「来ない」から。
 「子守の人間」の有無というのは要するに外的環境で、外的環境/関係に恵まれなかったがゆえにそういう認知の仕方をしていかないといけないんだというようなことだと思う。そしてそういう自己をメタ的に認識している。だから「子守の人間は来ないよ」は言わば作中主体の心象における科白で、自分の境遇を自分自身に言い聞かせることで認識を強化させている、といった感がある。
 それでもこの歌には自嘲的な響きが薄くて、むしろ「知る」こと、人並みならば躓かない些細なことをひとつひとつ学んでいくということへの前向きな意識も同時に匂わせるような、どこかフラットな地点にうまく着地できているのがいいと思う。「ネガティブな自意識」をテーマに据えて自嘲的にならないのはたぶん結構難しい。


 もう一人の、木野誠太郎さんの作品は、ハチさんが「メンヘラ」に対して内側からのアプローチをかけているのに対して、表層からのアプローチを意識してるのかなと思って、その対比がなかなか面白かった。

避妊具の袋やぶりて0.02ミリの壁に染められし冬
木野誠太郎 (『メンヘラリティ・スカイ』より)



 上に引用した歌なんかは着眼点が面白いなあと思った。確かにコンドームの色に染まった男性器というのはなかなか異様なものだけれども、そこに「冬」が来ることで一気に身体感覚が一首全体に宿る感じがする。平たく言うと寒い。孤独だ。それを「壁」と形容したことも、「れいてんれい/に」のところで句跨ぎをしているのも張りつめた感覚を強化していて技巧的だと思う。「れいてんれい」なんかは音自体がなんか冷たいし、身体的な歌なのに冷たいモチーフしか出てこないのが良い。
 ただ、「やぶりて」にすごく作中主体の意志というか主体性が見られるのに対して、「染められし」という過去に対する客観的な描写になってしまっているのはすごくバランスが悪いと思う。同じ身体が現在と過去に切り離されてしまったかのような居心地の悪さを覚える。「やぶりて」を生かすのであれば結句は「染められよ」とかにしたほうが一貫していると思うし、逆に「染められし」の客観のほうを生かしたければ、二の句は「やぶれば」程度に留めて身体を突き放してあげた方が良かったんじゃないかなと言う気がする。