2021年の短歌まとめ
今年は例年とは趣向を変えて、Twitterに投稿(垂れ流し)していた一首評のまとめにしたいと思います。
改めて読みかえしてみると変なことやわかりにくいことを言ってる部分も多いので、適宜補足しつつという感じで。
こんなことするならはじめからブログに書けよという気もしつつ、個人的にはやっぱりTwitterがいちばん書きやすいというか、思考が捗るので、こういう形になります。
仕事してするどくなった感覚をレールの線に合わせてのばす
— 続続続・すずちう風蒸しケーキ物語 (@suzuchiu) 2021年1月23日
/永井祐『広い世界と2や8や7』(左右社 2020.12.8)
「仕事してするどくなった感覚」はわかる。認識と思考の様式が仕事用にチューニングされている感じ、それが勤務が終わった後もしばらく尾を引く感じ。だから仕事のあとに歌会とかがあったりすると変な感じになったりする。
— 続続続・すずちう風蒸しケーキ物語 (@suzuchiu) 2021年1月23日
でもそれを「レールの線にあわせて伸ばす」と言われると、そこからは語り手の個人的、内的感覚世界の領域だなと感じる。駅のホームで所在ないときにレールをじっと見てしまう感じはわかりつつ、僕自身はそれで自分のチューニングをしたことはない気がして、その一般論の領域と内的領域のシームレスさ。
— 続続続・すずちう風蒸しケーキ物語 (@suzuchiu) 2021年1月23日
【補足】永井さんの作風に関しては、よく「あるある感」みたいな評され方をしているのを見る気がする(ex:「歌壇」2022.1月号 大井学「ことばの鮮度管理」)のだけど、個人的にはそうでもないよなあというか、「いやいや、そんなことしてる(考えてる)の永井さんくらいですよ」というような気持ちになる歌もけっこう多い気がしていて、確かにあるあるネタ的な文脈で提示されているのかもしれないけど、それはもう永井さん固有のパーソナリティが前提の面白さであって、「あるある」の線でまとめる人はそういう「変な歌」を意図してか無意識にかわからないけど捨象してしまっているのではと思うことがある。
以下、しばらく第3回笹井賞の感想が続きます。
黙って歩く とはいえ雨が降りだせば雨の話が始まるでしょう
— 続続続・すずちう風蒸しケーキ物語 (@suzuchiu) 2021年2月1日
/乾遥香「夢のあとさき」(「ねむらない樹」vol.6)
「夢のあとさき」については、選考座談会の中の永井さんの「わたしがわたしについて語るという自己言及の反復性とか循環性が、(中略)短歌形式と私と言葉が三位一体にくるくる回るみたいな感じがあって、それがあまり閉塞的になっていなくて(後略)」というあたりの評がかなり的を得ていると思う。
— 続続続・すずちう風蒸しケーキ物語 (@suzuchiu) 2021年2月1日
この、閉塞的になっていないというのがポイントで、自己言及のサイクルが構造としては完結(閉塞)していながら、叙情として開放的なのは、いぬいさんの歌の叙情の核が可能世界論的なものの見方に依拠しているからではないかと思う。
— 続続続・すずちう風蒸しケーキ物語 (@suzuchiu) 2021年2月1日
掲出歌でいえば、このまま雨の降らない世界線と雨の降る世界線とが、一首が生まれた認識の中で枝分かれしていく感じ。"わたし"をめぐるありえたかもしれない世界やありえるかもしれない世界を思うとき、自己言及は複層的になって、閉塞していかないのだと思う。
— 続続続・すずちう風蒸しケーキ物語 (@suzuchiu) 2021年2月1日
ゆらゆらとテトラポッドの隙間はこわい 水があふれてまた引いていく
— 続続続・すずちう風蒸しケーキ物語 (@suzuchiu) 2021年2月7日
/「街の風景」(10首抄)片山晴之(「ねむらない樹」vol.6)
言われていることはピンポイントの実景なのだけど、実際テトラポッドの隙間というのはとても危険なもので、ときどき人が落ちて亡くなったりもしている。深淵を覗きこむときのおそれの気持ちと、ほのかな昂りみたいなものが伝わってくる印象。
— 続続続・すずちう風蒸しケーキ物語 (@suzuchiu) 2021年2月7日
三の句の7音がきいていて、ここが締まらないことで、散漫な印象というか、語り手の感覚が一点にフォーカスせずに拡散していく印象を与えていると思う。
— 続続続・すずちう風蒸しケーキ物語 (@suzuchiu) 2021年2月7日
【補足】ぜんぜん関係ない話で、たまたまさいきん小池光の『街角の事物たち』(1991 五柳書院)を読んだのだけど、その中の「リズム考」という一節がめちゃくちゃ面白くて、面白いというか、自分が前々から漠然と考えててTwitterに書いたり「現代詩手帖」の10月号に「学習について」と題して寄稿した文章にも書いたりした、短歌定型というか"「短歌らしさ」の本質"(by小池光)について、ほとんど同じようなことがより具体的に細かく書かれていて、すごく参考になったし、やっぱり自分が考える程度のことは先人がだいたい考えているよねとも思ったのだけど、その小池光「リズム考」によると、こういう3の句7音は「未だ成功例を知らない。」とのこと。『街角の事物たち』から30年の時を経て、短歌定型というものも当然変容してきているのだと思う。
はじめてのメールアドレスに入れていたbadminton-loveみたいな気持ち
— 続続続・すずちう風蒸しケーキ物語 (@suzuchiu) 2021年2月7日
/「ふりかざす」(10首抄)紺野藍(「ねむらない樹」vol.6)
わかるよ、とも、いやあわかんないよ、とも思いつつ、こういうbadminton-love的な感覚って今でもあったりするのかなと思う。「私はこういう人間です」という自己規定のコードを、示すべき状況ではつねに共同体に対して示して、その都度承認を得続けなければならないような感覚。
— 続続続・すずちう風蒸しケーキ物語 (@suzuchiu) 2021年2月7日
共同体と個人の間における、自己規定の承認のプロセスって、メアドの表記にとどまらず、その後もたとえばエントリーシートにおける「私は学生時代、バドミントンに打ち込みました」みたいな形で、ずっと続いていくと思うのだけど、その最初の経験が、この人の場合はbadminton-loveだったのだという。
— 続続続・すずちう風蒸しケーキ物語 (@suzuchiu) 2021年2月7日
まあ、就活に例えずとも、ある共同体に属する中で、つねに自分の人格の解像度を「badminton-love」の水準にまで落とす必要性というか、得体の知れない人物であってはならない感じ、というのは、それなりにシリアスだし、普遍性のある問題だと思う。
— 続続続・すずちう風蒸しケーキ物語 (@suzuchiu) 2021年2月7日
目薬をさすのがうまくなったあとすこし経ってまた下手になった
— 続続続・すずちう風蒸しケーキ物語 (@suzuchiu) 2021年2月7日
/「うつむかずに歩く方法を知っている」(10首抄)斎藤見咲子(「ねむらない樹」vol.6)
できごとの時系列の起点と終点だけ取り出すと、何も変わってないようだし、何も起きてないことを言ってるようなのだけど、でもそうじゃなくて、一度は上手くなったんだという感触が、短歌としてここに書かれることで、確かに残り続けるというか、そこにこのタイトルが響いてくる気がする。
— 続続続・すずちう風蒸しケーキ物語 (@suzuchiu) 2021年2月7日
だから確かに人生観というか、生き残るための戦略みたいなことを言われているような気がして、それに対してなんかわかるなと思ってしまう。たとえ手放してしまったものでも一度は掴んだものなら、それは確かに掴んだものなのだ、という認識の方法というか。
— 続続続・すずちう風蒸しケーキ物語 (@suzuchiu) 2021年2月7日
人生よあれほど多くの人間と一緒に動いた修学旅行
— 続続続・すずちう風蒸しケーキ物語 (@suzuchiu) 2021年2月14日
/盛田志保子『木曜日(新装版)』(書肆侃侃房 2020.12.15)
「人生よ」の初句切れで、あとの二の句以下は「人生よ」に包含される詠嘆の領域なのだけど、体言止めの生む卒業式の呼びかけみたいなシュールさと、"人生"のレベルの粗さで捉えてもなお際立つ修学旅行というイベントの異様さに対する納得感がある。ああ、なんという修学旅行! という。
— 続続続・すずちう風蒸しケーキ物語 (@suzuchiu) 2021年2月14日
詠嘆調の初句切れ、という構図自体は古風でもありつつ、「人生」のざっくり解像度で物事を断定してみせるような姿勢って、わりとその後の(口語)短歌におけるひとつの技法の源流に近いのではという気がする。
— 続続続・すずちう風蒸しケーキ物語 (@suzuchiu) 2021年2月14日
下句の8・7(4・4・4・3)という韻律もゆるく散文調というか、ほんの少しだけ短歌定型とは別の空間に導かれる感じがする。
— 続続続・すずちう風蒸しケーキ物語 (@suzuchiu) 2021年2月14日
夕暮れだった 敵はどこにもいないけど消えるものは多くて駅に溢れる人たちに私も含まれている
— 続続続・すずちう風蒸しケーキ物語 (@suzuchiu) 2021年3月14日
/久石ソナ『サウンドスケープに飛び乗って』(書肆侃侃房 2021.2.12)
久石さんの定型感覚みたいものについて、個人的にはいくつかの観点で勝手に(わかるな〜)と思っているのだけど、そのひとつが掲出歌のような定型の全方向的な"拡張"の可能性についてだと思う。
— 続続続・すずちう風蒸しケーキ物語 (@suzuchiu) 2021年3月14日
① 夕暮れだった /敵はどこにも/いないけど/消えるものは多くて/駅に溢れる人たちに私も含まれている
— 続続続・すずちう風蒸しケーキ物語 (@suzuchiu) 2021年3月14日
② 夕暮れだった /敵はどこにもいないけど/消えるものは多くて/駅に溢れる人たちに/私も含まれている
掲出歌に対する読者側の短歌定型への落とし込み作業の方法論として、たぶん上記のふた通りの方法があると思うのだけど、①が頭から短歌定型を突き合わせて切れがあると思われる箇所に句の切れ目を当てはめていく方式で、結果として結句がだるだるになるのだけど、個人的には②のほうを適用したくて、
— 続続続・すずちう風蒸しケーキ物語 (@suzuchiu) 2021年3月14日
なぜ②が読感としてありうるのかというと、②の場合上句が7/12/10で、この二の句から三の句への2音分の締まりが短歌定型の短-長-短(-長-長)の緩急を支えているように感じられるからだと思う。
— 続続続・すずちう風蒸しケーキ物語 (@suzuchiu) 2021年3月14日
要するに短歌定型ってそもそも何なの?という定義をすでに"短歌"として存在する事象たちから帰納的に極限まで還元していったとき、最後まで残るのはこの二の句から三の句の緩急なのでは?ということで、そういう視点に立つと掲出歌はむしろやたら短歌短歌した感じに読めてきませんか、という。
— 続続続・すずちう風蒸しケーキ物語 (@suzuchiu) 2021年3月14日
【補足】8月に久石さんの歌集『サウンドスケープに飛び乗って』のオンライン批評会があり、パネリストを務めさせていただいた。その中でも久石さんの韻律観みたいな部分についてけっこう話ができたので個人的にはよかった気がしている。
\お知らせ/
— 久石ソナ/第一歌集『サウンドスケープに飛び乗って』 (@sona_hisa) 2021年8月8日
私の歌集『サウンドスケープに飛び乗って』(書肆侃侃房)の批評会が開かれます!
パネラーに
初谷むいさん(@h_amui )
鈴木ちはねさん(@suzuchiu )
𠮷田恭大さん(@nanka_daya )
ゲストに山田航さん(@YM_WT )
が来てくださいます!
8月22日20時からzoomにて!よろしくお願いします!! pic.twitter.com/9yHhrQXTRW
珈琲が体の一部になったのでこぼさず歩くことができます
— 続続続・すずちう風蒸しケーキ物語 (@suzuchiu) 2021年4月18日
/谷川由里子『サワーマッシュ』(左右社 2021.3.21 )
谷川さんの歌の美質のひとつとして個人的に思うのは、こういうある種のロジカルさというか、ただごと歌的な思考を極私的な愉楽へと昇華していく過程を見せられてるような感じがするところだと思う。思考そのものの快楽というか。
— 続続続・すずちう風蒸しケーキ物語 (@suzuchiu) 2021年4月18日
解説で大森さんがこの歌について「コーヒーカップに変身しかかっている」と評しているのだけど、僕の印象はそうではなくて、単に一般的な事実どうしを結びつけた一般論を言っている(体内に取り込まれた珈琲はもうこぼれないので、私は私が飲んだ珈琲をこぼさずに運ぶことができる)ように思われる。
— 続続続・すずちう風蒸しケーキ物語 (@suzuchiu) 2021年4月18日
大森さんの読みはたぶん、116ページの
— 続続続・すずちう風蒸しケーキ物語 (@suzuchiu) 2021年4月18日
珈琲をそそがれるとき丸ごとのコーヒーカップにわたしはなれる
を受けていると思うのだけど、連作という括りがない中で、どこまで別の歌の印象を引き寄せて読めばいいのかというのは難しいところでもあると思う。
似たような歌の極端なやつでいうと、
— 続続続・すずちう風蒸しケーキ物語 (@suzuchiu) 2021年4月18日
あの世から呼べばこの世の公園の花のパネルもあの世なんだね(同120ページ)
とかもそう。谷川さんの中にある確固たる理屈に基づいている、という感じ。
【補足】5ツイート目の「120ページ」は「127ページ」の誤り。『サワーマッシュ』の刊行は間違いなく今年最良の出来事のうちのひとつだと思う。
淀川は広いな鴨川とは全然ちがうなほとんど琵琶湖じゃないか
— 続続続・すずちう風蒸しケーキ物語 (@suzuchiu) 2021年4月24日
/橋爪志保『地上絵』(書肆侃侃房 2021.4.7)
橋爪さんの知ってる歌ではこれがいちばん好きなのだけど、淀川水系スペシャルという感じがして楽しい。淀川〜鴨川〜(疏水)〜琵琶湖の水は全部ひとつづきで、でもそのことをわかっていようがいまいが、この歌の中ですべての水がひと続きである感じは変わらないというか、もっと直観的なものだと思う。
— 続続続・すずちう風蒸しケーキ物語 (@suzuchiu) 2021年4月24日
淀川は/広いな鴨川/とは全然/ちがうなほとんど/琵琶湖じゃないか
— 続続続・すずちう風蒸しケーキ物語 (@suzuchiu) 2021年4月24日
という印象と
淀川は広いな/鴨川とは全然ちがうな/ほとんど琵琶湖じゃないか
という印象があって、初読の印象では前者なのだけど、何度も反芻しているとだんだん後者に移行していく感じがするのも楽しい。韻律から声への移行。
こういう二重性というかメロディの重層性みたいなのは、へたに字開けとか読点とかその他各種約物で区切らないからこそ出せていると思うのだけど、わりとこの辺はわかりやすさ重視で作ってしまう人も多いところだよなと思う。
— 続続続・すずちう風蒸しケーキ物語 (@suzuchiu) 2021年4月24日
えいやって何かを振ればあたしでもこの戦争を 何なんだろう
— 続続続・すずちう風蒸しケーキ物語 (@suzuchiu) 2021年6月12日
/豊冨瑞歩「目的地」(「つくば集」創刊号 2021.5 所収)
要するに生きるということは本質的に賭けであり、また戦争でもあるということなのだけど、そういう言語化しきれない途方もない事柄を認識してしまったときの「何なんだろう」という立ち止まりがあって、一字開けのエアポケットが差し挟まれることでその思考の加速と消散というのがよく出ていると思う。
— 続続続・すずちう風蒸しケーキ物語 (@suzuchiu) 2021年6月12日
メリー・ゴー・ロマンに死ねる人たちが命乞いするところを見たい
— 続続続・すずちう風蒸しケーキ物語 (@suzuchiu) 2021年6月27日
/平岡直子『みじかい髪も長い髪も炎』(本阿弥書店 2021.4.26 )
「メリー・ゴー・ロマン」は「メリー・ゴー・」が任意のら行の詞を導く枕詞的なものかとなんとなく思っていて、今日のトークイベントの中では「メリー・ゴー・ロマン」で単体の造語というか造概念?みたいな感じで語られていて、そうなのか〜と思ったのだけど、
— 続続続・すずちう風蒸しケーキ物語 (@suzuchiu) 2021年6月27日
当然にメリーゴーランドの円環運動のイメージというか、一見美しいけど同じことの繰り返しというような醒めた世界像をも寓意したフレーズだと思う。
— 続続続・すずちう風蒸しケーキ物語 (@suzuchiu) 2021年6月27日
それはある種のロマン主義の軽薄さというか、口では「ロマンに死ねる」と吹聴しながら実際にはそうしない、という人たちが現れては去っていくさまでもあって、そういう人たちに、「本当に?」という問いを突きつけたい、というところで、この歌は一周回ってロマン至上主義への宣言という感じもある。
— 続続続・すずちう風蒸しケーキ物語 (@suzuchiu) 2021年6月27日
「命乞いするところを見たい」というのは征服欲や支配欲というか、それ自体わりと普遍的な暗い欲望でもあると思うのだけど、似非ロマン主義者をロマン主義の理屈で屈服させようというのだから、それはリアリストの立場からの皮肉ではないと思う。
— 続続続・すずちう風蒸しケーキ物語 (@suzuchiu) 2021年6月27日
【補足】2ツイート目「今日のトークイベント」というのは、6月27日に神保町ブックセンターで開催された谷川さんと平岡さんのトークイベント「二冊の歌集の宇宙遊泳」のことで、私はオンラインで視聴していた。谷川さんと平岡さんがお互いの歌集について言及していくスタイルで面白かった。
【イベント情報】6/27(日)17時~歌人の谷川由里子さんと平岡直子さんのトークイベントが決定しました📚会場、オンラインどちらもご参加可能!
— 左右社 (@sayusha) 2021年6月7日
~二冊の歌集の宇宙遊泳~『サワーマッシュ』(左右社)『みじかい髪も長い髪も炎』(本阿弥書店)刊行記念トークイベント▶︎https://t.co/wTnZqiXUIb pic.twitter.com/16RsUuSZfR
ノスタルジーの窓から見てるスナイパー ああ、優勝旗が返還される
— 続続続・すずちう風蒸しケーキ物語 (@suzuchiu) 2021年8月5日
/瀬口真司「プライベート・ソウル」(「ねむらない樹」vol.7 2021.8 )
"優勝旗"という事物の、あるいは「優勝旗返還」というイベントのありさまについて考えたときに、それが本質的にループしているということがわかると思う。優勝旗という天体が何らかの大会という空間上の任意の一点を通過する周回軌道をえんえん廻りつづけているイメージ。
— 続続続・すずちう風蒸しケーキ物語 (@suzuchiu) 2021年8月5日
この"優勝旗"が描く周回軌道と、それが定期的に通過する「返還」→「授与」というイベントに挟まれる大会の領域を、外部から観測している視座があって、それが"スナイパー"の視線なのかなあというのをなんとなく思う。
— 続続続・すずちう風蒸しケーキ物語 (@suzuchiu) 2021年8月5日
ここでは優勝旗の運動は周回運動なので、それを軌道の外から見る観測者は、ループする世界で同じ"返還"現象を何度も観測することになって、そのたびに優勝旗を返還したり授与したりするたびに流れるあの音楽(名前がわからない)が流れ続ける。
— 続続続・すずちう風蒸しケーキ物語 (@suzuchiu) 2021年8月5日
だからこの"ああ、"には、"優勝旗"という事物が迎える存在感のピークに対する恍惚がある一方で、同じ事象の繰り返しに何ら影響を及ぼしえない観測者としての絶望もあるように思う。もちろん"スナイパー"はその気になればいつでも引き金を引くことができるはずなのだけど、彼にはそれができない。
— 続続続・すずちう風蒸しケーキ物語 (@suzuchiu) 2021年8月5日
なぜ引き金をひけないかというところに、彼が"ノスタルジー"という視座からの観測者であるということが通じていて、ループ構造を持ってしまった/持たせてしまった過去と、それに対する終わりのない陶酔と退廃、というモチーフが見えてくる気がする。短歌だからそういう時間軸のない読みがゆるされる。
— 続続続・すずちう風蒸しケーキ物語 (@suzuchiu) 2021年8月5日
【補足】おそらく今年書いた中でいちばん怪文書じみた一首評なのだけど、4ツイート目の「あの音楽」は以下リンクものをイメージしていた。これがBGMとして一首の中でえんえんループし続けていることのやばさ。
www.youtube.com
マスクもしないでピンクのフリスビーを投げ合う男の子、女の子 雨のなか
— 続続続・すずちう風蒸しケーキ物語 (@suzuchiu) 2021年10月7日
/浪江まき子「プリンシパル」(「半券」3号 2021.9 所収)
「ピンクの」までが4・4・4で、「フリスビーを」の6で膨らむ感じがすごく短歌らしさを担保しているような印象がある。まあ、「を」は二の句と三の句を掛け持ちしてるみたいな感じだけど。
— 続続続・すずちう風蒸しケーキ物語 (@suzuchiu) 2021年10月7日
二の句三の句が一体化してる感じとか下句三分割の感じはわりと今風というか、個人的にはこういう韻律気持ちいいよねえという気持ちになる。
— 続続続・すずちう風蒸しケーキ物語 (@suzuchiu) 2021年10月7日
歌意を追っていくと、「マスクもしないで」の眉のひそみ、ピンクの物体の空中を行き交うさま、人物、そして最後に「雨のなか」ということで、結句まで行ってかなりイメージが反転するというか、後から遡って全部の景がずぶ濡れになるのだけど、
— 続続続・すずちう風蒸しケーキ物語 (@suzuchiu) 2021年10月7日
これは一般的な記述においては逆なのではというか、まず「雨のなか」という背景の前提から述べられるのが妥当なところ、マスクしてないことのほうがはるかに前景に出てきて、雨のほうが認識のうえで後回しにされていることの異様さ。時節柄というか、有事における認識の変容のありさまというか。
— 続続続・すずちう風蒸しケーキ物語 (@suzuchiu) 2021年10月7日
だからこの歌はまあいわゆるコロナ詠なんだけど、コロナ詠にもこういうふうに普遍性へと通じる道筋はちゃんとあるんだなというところで、個人的にはハッとするところがあった。
— 続続続・すずちう風蒸しケーキ物語 (@suzuchiu) 2021年10月7日
ふつうに考えてモチーフは本質じゃないんだからそりゃそうなんだけど、それでも他のことをやるよりもずっとハードルは高いと思う。みんながただ表層を撫でているもので本質を捉えるということ。
— 続続続・すずちう風蒸しケーキ物語 (@suzuchiu) 2021年10月7日
一月の部屋緩やかに温まり午後二時以降冷めるにまかす
— 続続続・すずちう風蒸しケーキ物語 (@suzuchiu) 2021年10月9日
/相田奈緒「冷気」(「半券」第3号 2021.9 所収)
これは見事に"何もしていない"をしている歌というか、"ただそこにいる"という形でこの世界に内側から関与しているという歌なのだけど、それが語り手の主体的な関わり方であるがゆえに、一月のある1日のゆるやかな時間の移り変わり、という感じがそのままのスケールで伝わってくるような感じがする。
— 続続続・すずちう風蒸しケーキ物語 (@suzuchiu) 2021年10月9日
個人的に持っているモデルとして、「短歌の結句と初句はつながっている」という理論があって、要するに短歌という型式にはループ、ないし螺旋状の構造があるよ、という話なのだけど、この歌はその構造に本当にうまく使っているという印象がある。
— 続続続・すずちう風蒸しケーキ物語 (@suzuchiu) 2021年10月9日
1年とか1日というのはおよそ同じようなサイクルで経過していくのだけど、一方で同じ1日はもう二度と来くることがないという普遍性と一回性が両立してるような状態があって、そのある1日のありがたみが短歌型式の円環構造の中ですごく増幅されるというか、一首の中で永遠になるみたいな気がしてくる。
— 続続続・すずちう風蒸しケーキ物語 (@suzuchiu) 2021年10月9日
だからなんというか、体感というか、〈わたし〉と世界との関わり合いによって担保される、かけがえのない1日の、かけがえのない時間だ、ということなのだと思う。
— 続続続・すずちう風蒸しケーキ物語 (@suzuchiu) 2021年10月9日
【補足】3ツイート目の「結句と初句はつながっている」理論は先に挙げた瀬口さんの歌の読みにも通じてくる話(というかこれをちゃんと言わないから怪文書チックになっていると思う)。
東アジアの日本の東京の シニシズム 畳の床で寝る
— 続続続・すずちう風蒸しケーキ物語 (@suzuchiu) 2021年10月27日
/牛尾今日子「TOKYO 2020 (2)」(2021.10.26 「うたとポルスカ」https://t.co/VlhmEIxzLb)
東アジアの日本の東京、は、われわれは都合よく日本もまたアジアの一員なのだということを忘れる、みたいなことを言外に含んでいるのかなと思う。なんか語に謎の圧があって、短歌のオーソドックスな韻律とは無関係に「東アジアの/日本の/東京の」という受け止めしかできない感じがある。
— 続続続・すずちう風蒸しケーキ物語 (@suzuchiu) 2021年10月27日
「シニシズム」というのはたぶん冷笑主義のことで、このシニカルさは、一字開けにはさまれることによる統語的な全方向性をもって、「東アジアの日本の東京」というあたりまえのはずの言辞を咀嚼するのに謎の労力を費やしている読者たるこのわたしにまずかかってくるという構図があるような気がする。
— 続続続・すずちう風蒸しケーキ物語 (@suzuchiu) 2021年10月27日
「畳の床で寝る」のは読者たるわたしではなくて歌の〈わたし〉なのだけど、この畳のごわついて少しひんやりした感触やすえた匂いの感じ(特に根拠はないけど新しい青い畳の床を想像しない)、もまた、なんとなく「シニシズム」にかかっているというか、
— 続続続・すずちう風蒸しケーキ物語 (@suzuchiu) 2021年10月27日
2021年の東京において畳の床で寝る人の割合の高くなさ(なんとなくの推定)と、げんに"いま""ここ"で畳の床に臥している〈わたし〉の確からしさの間の微妙なギャップが、そこにシニシズムの嵌入を招いているのではないかと思う。
— 続続続・すずちう風蒸しケーキ物語 (@suzuchiu) 2021年10月27日
べつに「畳の床で寝る」ことに特段のいじけた感じがあるわけではなく、ただその感触と、"東アジア"からフォーカスして"東京"という都市の規模で物事を捉える巨視的な視座が縦書きの上下にある構図には、"シニシズム"が間に置かれうるということの、ふしぎな納得感というか、なんて言えばいいんだろう。
— 続続続・すずちう風蒸しケーキ物語 (@suzuchiu) 2021年10月27日
ラジオから誰か終わりのあいさつを待ってるというわけでもないが
— 続続続・すずちう風蒸しケーキ物語 (@suzuchiu) 2021年10月27日
/牛尾今日子(同)
この「終わりのあいさつ」はむろん玉音放送なのだけど、ラジオから玉音放送(に相当する誰かの何か)は流れないし、べつにそれを(誰も)待っているわけでもない、というとき、そこには最終的に誰もいなくなって、ただこの一首だけが見せけちみたいな感じで残るみたいな印象がある。
— 続続続・すずちう風蒸しケーキ物語 (@suzuchiu) 2021年10月27日
「誰か」が漠然と係り先を見失っていることも誰もいない感じを強めていて、東京にはもちろんたくさん人がいるのだけど、本質的な意味で現在進行形の歴史の当事者たろうとする人が"誰もいない"ということが、非在の玉音放送を待つ非在の人の姿(ネガ)として立ち現れるというのも読みすぎでもないと思う。
— 続続続・すずちう風蒸しケーキ物語 (@suzuchiu) 2021年10月27日
夏のくびれの部分にあったイヤリング 車の鍵みたいで似合ってた
— 続続続・すずちう風蒸しケーキ物語 (@suzuchiu) 2021年11月3日
/左沢森「銘菓」(https://t.co/opdIQB0rla)
夏に「くびれの部分」があるという把握、たしかに夏の夏らしさを時系列でグラフにしたときに、そんなにきれいな放物線は描かずに、どこかに一度減衰してまた盛り返すみたいなフェーズはあるよなと思う。「日陰はちょっと涼しい」くらいの「夏のくびれ」。
— 続続続・すずちう風蒸しケーキ物語 (@suzuchiu) 2021年11月3日
夏だけど、夏の中の、ちょっとひんやりとした時空。「イヤリング」を「車の鍵みたい」と言うとき、なんとなく形状のディテールというよりも、その"揺れ方"を想起する印象がある。車の鍵みたいな揺れ方。「イヤリング」の揺れがイメージされることで、その「夏のくびれ」の時空はより確からしくなる。
— 続続続・すずちう風蒸しケーキ物語 (@suzuchiu) 2021年11月3日
こういう感触を残すことができるのがたぶん口語体における「-タ」形の強みで、最後にアクチュアリティを差し引くことで、余韻というか、夏であれば夏の、もう"いまここ"にはない、取り戻せない感覚みたいなものがいっそう強く立ちあがるのではないかと思う。
— 続続続・すずちう風蒸しケーキ物語 (@suzuchiu) 2021年11月3日
そして詩の中には光る犬がいてその前と後ろの二千年
— 続続続・すずちう風蒸しケーキ物語 (@suzuchiu) 2021年11月23日
/笹川諒「素描」(webサイト「うたとポルスカ」2021.11.20公開)https://t.co/apC0QiROHa
この歌は「そして」から始まるのがとても良いように思う。歌の中で歌意として示唆されているテキストの余白の領域を四次元的に捉える試みがこの歌自体にも適用されるというか、すべての"書かれた"テキストに対してこういう感慨があるというようなことを言われている気がする。
— 続続続・すずちう風蒸しケーキ物語 (@suzuchiu) 2021年11月23日
「光る犬」という一点、それは語り手が読んでいるテキスト上の何かめざましい任意の一点だと思うのだけど、そこを起点に、同一平面、あるいは同一空間だけでなく、その"書かれた"前後に伸びる時間軸に思いを馳せるということ、またそれ自体もまた"書かれる"ことで自己言及の性質を帯びるという二重性。
— 続続続・すずちう風蒸しケーキ物語 (@suzuchiu) 2021年11月23日
たぶんもう100回くらいは洗ってるTシャツをどんどん好きになる
— 続続続・すずちう風蒸しケーキ物語 (@suzuchiu) 2021年11月26日
/中村美智「そこから春」(「羽根と根」10号 2021.11)
「100回くらいは」の"は"に、「100回くらい」のもっともらしさと裏打ちというか、てきとうに言った「100回」ではないという感じがする。たとえば週に一回着てるとして、一年はだいたい五十週ちょいだから、二年着てたらだいたい百回ぐらいだな、ぐらいの裏付けがありそうというか。
— 続続続・すずちう風蒸しケーキ物語 (@suzuchiu) 2021年11月26日
洗うというのは当然それだけ着てるということで、そのTシャツを着た回数を類推することは、それだけそのTシャツとともにあった日々の暮らしを振り返るということでもあって、「Tシャツをどんどん好きになる」というとき、Tシャツだけでなくむしろその暮らしの部分を肯定してるような印象がつよくなる。
— 続続続・すずちう風蒸しケーキ物語 (@suzuchiu) 2021年11月26日
下句は韻律もよくて、「Tシャツをどんどん好きになる」の「どんどん」が、どんどん来る感じがする。
— 続続続・すずちう風蒸しケーキ物語 (@suzuchiu) 2021年11月26日
一首としては「Tシャツ」に「たぶんもう100回くらいは洗ってる」と「どんどん好きになる」という修辞がふたつ併置でぶら下がってるみたいな感じなのだけど、このふたつの修辞がどちらもプラスのことを言っている、プラスとプラスが順接で並んでる、という感じは実はけっこう不思議な構図だと思う。
— 続続続・すずちう風蒸しケーキ物語 (@suzuchiu) 2021年11月26日
短歌的な考え方としては係る一方が「どんどん好きになる」みたいな強いプラスであればあるほど、その前には(にもかかわらず)的な逆接を置きたくなりがちだし、そのように読もうとしてしまいがちだと思うのだけど、この歌ではただひたすら末広がりみたいな感じがあってそうさせない凄味がある気がする。
— 続続続・すずちう風蒸しケーキ物語 (@suzuchiu) 2021年11月26日
【補足】「羽根と根」の10号に「青春はいちどだけ」というタイトルの散文を寄稿させていただいた。内容的には、そもそも"同人"ってなんなんだろう、みたいなことを考えていたら必要以上に感傷的になってしまったような感じ。「場」の意義と刹那主義の対立、そしてその中で続けることの難しさ。
【おしらせ】
— 短歌同人誌「羽根と根」【文フリ東京セ-8】 (@hanetonetanka) 2021年11月19日
2021.11.23(火・祝)に開催される第33回文学フリマ東京で、『羽根と根』新刊の10号を頒布いたします。ブースはセ-08です。目次は以下画像です。どうぞよろしくお願い致します。 pic.twitter.com/78h0bThP1y
一一九二二九六〇年にきっと幕府を開いてあげる
— 続続続・すずちう風蒸しケーキ物語 (@suzuchiu) 2021年11月28日
/品川佳織「続編」(「半夏生の本」vol.3 2021.11)
「一一九二二九六〇」は音数的には「いちいちきゅう/にいにいきゅうろく/ぜろねんに」だと思うのだけど、語呂としては「いいくにつくろう」。真にうけると「いっせんひゃくきゅうじゅうにまんにせんきゅうひゃくろくじゅう」年。
— 続続続・すずちう風蒸しケーキ物語 (@suzuchiu) 2021年11月28日
このほかに、個人的にはこの文字列の中に「一九九六」が見えるようなところがあって、たぶんこの連作自体が現在と、(たぶん)近過去の幼少時代を往還しているからそう感じるのだけど、過去日付の「きっと」になると何か可能世界論的な抒情と、ありえたかもしれない過去への憧憬が立ち上がる気がする。
— 続続続・すずちう風蒸しケーキ物語 (@suzuchiu) 2021年11月28日
ここから先はほんとうに個人的な見解なので話半分でいいのだけど、「過去を変えること(回復/再生/救済)」というのは、それが散文的なロジックの積み上げでは不可能であるからこそ、韻文においては主題になりうると思っていて、過去に向けての「きっと」というのは韻文だから可能な語法だと思う。
— 続続続・すずちう風蒸しケーキ物語 (@suzuchiu) 2021年11月28日
信号の向こうに海が見えている 青になったら左に曲がる
— 続続続・すずちう風蒸しケーキ物語 (@suzuchiu) 2021年12月19日
/酒田現「青になったら」(「Q短歌会」第4号 2021.11)
車で、信号待ちをしていて、信号の向こうに海が見えていて、「信号が青に変わったら左に曲がろう」ということを思っている、思い直している、という歌だと思うのだけど、重要なのは「青になったら」以下の思考は、一度はそのことを忘れていないと、"再認識"の形では浮かんでこないということだと思う。
— 続続続・すずちう風蒸しケーキ物語 (@suzuchiu) 2021年12月19日
だから上句で海の存在に気づいて、それを見ている〈私〉は、完全に海のほうに思考を持っていかれて、信号のことも、このあと自分がどちらにハンドルを切るのかも、そもそも自分が運転者であることも全部忘れていて、一字開けを挟んでもう一度それらを全部思い出している、という読みが成り立つと思う。
— 続続続・すずちう風蒸しケーキ物語 (@suzuchiu) 2021年12月19日
こういう認識の変遷というか、思考の飛び方って実際けっこうあるというか、客観的には微細なんなけど主観的にはかなりダイナミックな認識の移り変わりというものを、言葉にするのは難しいのだけど、すごくリアリティを持って提示してきていると思う。
— 続続続・すずちう風蒸しケーキ物語 (@suzuchiu) 2021年12月19日
重ねて言うと、「青になったら左に曲がる」という思考の言語化は、予言的な言明であって、実際にその予言が成就するかどうかまでは語られていないのも良いと思う。ここではあくまでも"左折"は数ある可能性のうちのひとつとして提示されている。
— 続続続・すずちう風蒸しケーキ物語 (@suzuchiu) 2021年12月19日
実際にはそのあと何かを思い直したり、「左に曲がる」と思いながら右に曲がってしまうこともあるかもしれない(不条理①)し、そのまま真っ直ぐ海へとダイブしてしまう可能性もある(不条理②)わけで、予言の時点ではそれらの可能性はすべてまだ排除されないと思う。
— 続続続・すずちう風蒸しケーキ物語 (@suzuchiu) 2021年12月19日
そういう中で、「左折」という可能性を選択しようと言明しているということは、必然的に「そうではなかった可能性」をこれから捨象しようということで、その「これから選ばないことになる可能性」への目線というか手つきというか憧憬みたいなものもなんとなく感じさせる歌だと思う。
— 続続続・すずちう風蒸しケーキ物語 (@suzuchiu) 2021年12月19日
かにかまやプリクラを縦に裂くとき楽しく なく ない? 歯を食いしばれ
— 続続続・すずちう風蒸しケーキ物語 (@suzuchiu) 2021年12月30日
全力の死生観なら全力で ホワイトハウスのかたちのケーキ
/佐倉誰「かにかまグルーミング」(ネットプリント 2021.12.24 ) https://t.co/5TDonMBzwX
掲出1首目、ひとを試してる感がすごいというか、ちょっと理不尽すぎてうける。途中までとても楽しそうな調子で語られて、うっかりそれへの同調を用意してしまうと急に問いが"なく"のほうに転回されて、そのまま引っ叩かれてしまう。
— 続続続・すずちう風蒸しケーキ物語 (@suzuchiu) 2021年12月30日
掲出2首目、そう言われてみるとたしかに生きるというのは何よりもまずその死生観を生きるということだなあという気持ちになる。おそらく高度資本主義社会に生きるわれわれにも、高度資本主義社会の死生観というものが知らず知らずのうちにちゃんと?インプットされている。
— 続続続・すずちう風蒸しケーキ物語 (@suzuchiu) 2021年12月30日
なんであれ己の死生観というものをちゃんと全うせよということなんだけど、一字開けを挟んで下句がそれとどういうふうに関係しているのかはけっこう難しい。「ホワイトハウス」は基本的には世俗的な権力を掌る場所で、一見すると信仰の文脈とは程遠い。
— 続続続・すずちう風蒸しケーキ物語 (@suzuchiu) 2021年12月30日
ただ逆説的には短歌の中で上下で括られているということは、この短歌の中では「死生観」を「ホワイトハウス」は象徴しうる(短歌的喩)ということで、それが「ケーキ」として食べ尽くされる(消費)イメージと相俟って、なんとなく前述の高度資本主義社会の死生観、みたいなものを個人的にはイメージする。
— 続続続・すずちう風蒸しケーキ物語 (@suzuchiu) 2021年12月30日
じゃあその「高度資本主義社会の死生観」って何なんですかというと、たぶん「死を捨象する」態度なのではないかという気がする。われわれは消費する主体あるいは消費される客体として、つねに「現世のことだけ考えろ」と要求されていて、おそらくこれを内面化することもまた一種の死生観なのだと思う。
— 続続続・すずちう風蒸しケーキ物語 (@suzuchiu) 2021年12月30日
資本主義社会においてはすべてのリソースが資本そのものの増大と領土拡大へと向けられるべきなので、来世に向けて功徳を積むとか天に徳を積むみたいな旧来の志向は根本的に資本主義のベクトルには反するわけなのだけど、そのネガもまた死生観ではあるよねというのはひとつの気づきだと思う。
— 続続続・すずちう風蒸しケーキ物語 (@suzuchiu) 2021年12月30日
まあだからいっそのこと「われわれは資本によって生かされている!!!」ぐらいまで振り切ってみたらどうやねん的な皮肉のニュアンスも掲出歌にはあるかもしれない。
— 続続続・すずちう風蒸しケーキ物語 (@suzuchiu) 2021年12月30日
いかがでしたか?
個人的には、まとめながら「これ、ほとんどトゥギャッターでよかったんじゃね?」と思いました。
あと特に後半、もうちょっと簡潔にものを書けないのかと思います。
Twitterで一首評した短歌は上に引いた以外にもけっこうあって(引いたのは3分の1くらい)、引かなかった歌も含めて、どれも好きな歌でした。
それでは皆様よいお年をお過ごしください。