2021年の短歌まとめ
今年は例年とは趣向を変えて、Twitterに投稿(垂れ流し)していた一首評のまとめにしたいと思います。
改めて読みかえしてみると変なことやわかりにくいことを言ってる部分も多いので、適宜補足しつつという感じで。
こんなことするならはじめからブログに書けよという気もしつつ、個人的にはやっぱりTwitterがいちばん書きやすいというか、思考が捗るので、こういう形になります。
仕事してするどくなった感覚をレールの線に合わせてのばす
— 続続続・すずちう風蒸しケーキ物語 (@suzuchiu) 2021年1月23日
/永井祐『広い世界と2や8や7』(左右社 2020.12.8)
「仕事してするどくなった感覚」はわかる。認識と思考の様式が仕事用にチューニングされている感じ、それが勤務が終わった後もしばらく尾を引く感じ。だから仕事のあとに歌会とかがあったりすると変な感じになったりする。
— 続続続・すずちう風蒸しケーキ物語 (@suzuchiu) 2021年1月23日
でもそれを「レールの線にあわせて伸ばす」と言われると、そこからは語り手の個人的、内的感覚世界の領域だなと感じる。駅のホームで所在ないときにレールをじっと見てしまう感じはわかりつつ、僕自身はそれで自分のチューニングをしたことはない気がして、その一般論の領域と内的領域のシームレスさ。
— 続続続・すずちう風蒸しケーキ物語 (@suzuchiu) 2021年1月23日
【補足】永井さんの作風に関しては、よく「あるある感」みたいな評され方をしているのを見る気がする(ex:「歌壇」2022.1月号 大井学「ことばの鮮度管理」)のだけど、個人的にはそうでもないよなあというか、「いやいや、そんなことしてる(考えてる)の永井さんくらいですよ」というような気持ちになる歌もけっこう多い気がしていて、確かにあるあるネタ的な文脈で提示されているのかもしれないけど、それはもう永井さん固有のパーソナリティが前提の面白さであって、「あるある」の線でまとめる人はそういう「変な歌」を意図してか無意識にかわからないけど捨象してしまっているのではと思うことがある。
以下、しばらく第3回笹井賞の感想が続きます。
黙って歩く とはいえ雨が降りだせば雨の話が始まるでしょう
— 続続続・すずちう風蒸しケーキ物語 (@suzuchiu) 2021年2月1日
/乾遥香「夢のあとさき」(「ねむらない樹」vol.6)
「夢のあとさき」については、選考座談会の中の永井さんの「わたしがわたしについて語るという自己言及の反復性とか循環性が、(中略)短歌形式と私と言葉が三位一体にくるくる回るみたいな感じがあって、それがあまり閉塞的になっていなくて(後略)」というあたりの評がかなり的を得ていると思う。
— 続続続・すずちう風蒸しケーキ物語 (@suzuchiu) 2021年2月1日
この、閉塞的になっていないというのがポイントで、自己言及のサイクルが構造としては完結(閉塞)していながら、叙情として開放的なのは、いぬいさんの歌の叙情の核が可能世界論的なものの見方に依拠しているからではないかと思う。
— 続続続・すずちう風蒸しケーキ物語 (@suzuchiu) 2021年2月1日
掲出歌でいえば、このまま雨の降らない世界線と雨の降る世界線とが、一首が生まれた認識の中で枝分かれしていく感じ。"わたし"をめぐるありえたかもしれない世界やありえるかもしれない世界を思うとき、自己言及は複層的になって、閉塞していかないのだと思う。
— 続続続・すずちう風蒸しケーキ物語 (@suzuchiu) 2021年2月1日
ゆらゆらとテトラポッドの隙間はこわい 水があふれてまた引いていく
— 続続続・すずちう風蒸しケーキ物語 (@suzuchiu) 2021年2月7日
/「街の風景」(10首抄)片山晴之(「ねむらない樹」vol.6)
言われていることはピンポイントの実景なのだけど、実際テトラポッドの隙間というのはとても危険なもので、ときどき人が落ちて亡くなったりもしている。深淵を覗きこむときのおそれの気持ちと、ほのかな昂りみたいなものが伝わってくる印象。
— 続続続・すずちう風蒸しケーキ物語 (@suzuchiu) 2021年2月7日
三の句の7音がきいていて、ここが締まらないことで、散漫な印象というか、語り手の感覚が一点にフォーカスせずに拡散していく印象を与えていると思う。
— 続続続・すずちう風蒸しケーキ物語 (@suzuchiu) 2021年2月7日
【補足】ぜんぜん関係ない話で、たまたまさいきん小池光の『街角の事物たち』(1991 五柳書院)を読んだのだけど、その中の「リズム考」という一節がめちゃくちゃ面白くて、面白いというか、自分が前々から漠然と考えててTwitterに書いたり「現代詩手帖」の10月号に「学習について」と題して寄稿した文章にも書いたりした、短歌定型というか"「短歌らしさ」の本質"(by小池光)について、ほとんど同じようなことがより具体的に細かく書かれていて、すごく参考になったし、やっぱり自分が考える程度のことは先人がだいたい考えているよねとも思ったのだけど、その小池光「リズム考」によると、こういう3の句7音は「未だ成功例を知らない。」とのこと。『街角の事物たち』から30年の時を経て、短歌定型というものも当然変容してきているのだと思う。
はじめてのメールアドレスに入れていたbadminton-loveみたいな気持ち
— 続続続・すずちう風蒸しケーキ物語 (@suzuchiu) 2021年2月7日
/「ふりかざす」(10首抄)紺野藍(「ねむらない樹」vol.6)
わかるよ、とも、いやあわかんないよ、とも思いつつ、こういうbadminton-love的な感覚って今でもあったりするのかなと思う。「私はこういう人間です」という自己規定のコードを、示すべき状況ではつねに共同体に対して示して、その都度承認を得続けなければならないような感覚。
— 続続続・すずちう風蒸しケーキ物語 (@suzuchiu) 2021年2月7日
共同体と個人の間における、自己規定の承認のプロセスって、メアドの表記にとどまらず、その後もたとえばエントリーシートにおける「私は学生時代、バドミントンに打ち込みました」みたいな形で、ずっと続いていくと思うのだけど、その最初の経験が、この人の場合はbadminton-loveだったのだという。
— 続続続・すずちう風蒸しケーキ物語 (@suzuchiu) 2021年2月7日
まあ、就活に例えずとも、ある共同体に属する中で、つねに自分の人格の解像度を「badminton-love」の水準にまで落とす必要性というか、得体の知れない人物であってはならない感じ、というのは、それなりにシリアスだし、普遍性のある問題だと思う。
— 続続続・すずちう風蒸しケーキ物語 (@suzuchiu) 2021年2月7日
目薬をさすのがうまくなったあとすこし経ってまた下手になった
— 続続続・すずちう風蒸しケーキ物語 (@suzuchiu) 2021年2月7日
/「うつむかずに歩く方法を知っている」(10首抄)斎藤見咲子(「ねむらない樹」vol.6)
できごとの時系列の起点と終点だけ取り出すと、何も変わってないようだし、何も起きてないことを言ってるようなのだけど、でもそうじゃなくて、一度は上手くなったんだという感触が、短歌としてここに書かれることで、確かに残り続けるというか、そこにこのタイトルが響いてくる気がする。
— 続続続・すずちう風蒸しケーキ物語 (@suzuchiu) 2021年2月7日
だから確かに人生観というか、生き残るための戦略みたいなことを言われているような気がして、それに対してなんかわかるなと思ってしまう。たとえ手放してしまったものでも一度は掴んだものなら、それは確かに掴んだものなのだ、という認識の方法というか。
— 続続続・すずちう風蒸しケーキ物語 (@suzuchiu) 2021年2月7日
人生よあれほど多くの人間と一緒に動いた修学旅行
— 続続続・すずちう風蒸しケーキ物語 (@suzuchiu) 2021年2月14日
/盛田志保子『木曜日(新装版)』(書肆侃侃房 2020.12.15)
「人生よ」の初句切れで、あとの二の句以下は「人生よ」に包含される詠嘆の領域なのだけど、体言止めの生む卒業式の呼びかけみたいなシュールさと、"人生"のレベルの粗さで捉えてもなお際立つ修学旅行というイベントの異様さに対する納得感がある。ああ、なんという修学旅行! という。
— 続続続・すずちう風蒸しケーキ物語 (@suzuchiu) 2021年2月14日
詠嘆調の初句切れ、という構図自体は古風でもありつつ、「人生」のざっくり解像度で物事を断定してみせるような姿勢って、わりとその後の(口語)短歌におけるひとつの技法の源流に近いのではという気がする。
— 続続続・すずちう風蒸しケーキ物語 (@suzuchiu) 2021年2月14日
下句の8・7(4・4・4・3)という韻律もゆるく散文調というか、ほんの少しだけ短歌定型とは別の空間に導かれる感じがする。
— 続続続・すずちう風蒸しケーキ物語 (@suzuchiu) 2021年2月14日
夕暮れだった 敵はどこにもいないけど消えるものは多くて駅に溢れる人たちに私も含まれている
— 続続続・すずちう風蒸しケーキ物語 (@suzuchiu) 2021年3月14日
/久石ソナ『サウンドスケープに飛び乗って』(書肆侃侃房 2021.2.12)
久石さんの定型感覚みたいものについて、個人的にはいくつかの観点で勝手に(わかるな〜)と思っているのだけど、そのひとつが掲出歌のような定型の全方向的な"拡張"の可能性についてだと思う。
— 続続続・すずちう風蒸しケーキ物語 (@suzuchiu) 2021年3月14日
① 夕暮れだった /敵はどこにも/いないけど/消えるものは多くて/駅に溢れる人たちに私も含まれている
— 続続続・すずちう風蒸しケーキ物語 (@suzuchiu) 2021年3月14日
② 夕暮れだった /敵はどこにもいないけど/消えるものは多くて/駅に溢れる人たちに/私も含まれている
掲出歌に対する読者側の短歌定型への落とし込み作業の方法論として、たぶん上記のふた通りの方法があると思うのだけど、①が頭から短歌定型を突き合わせて切れがあると思われる箇所に句の切れ目を当てはめていく方式で、結果として結句がだるだるになるのだけど、個人的には②のほうを適用したくて、
— 続続続・すずちう風蒸しケーキ物語 (@suzuchiu) 2021年3月14日
なぜ②が読感としてありうるのかというと、②の場合上句が7/12/10で、この二の句から三の句への2音分の締まりが短歌定型の短-長-短(-長-長)の緩急を支えているように感じられるからだと思う。
— 続続続・すずちう風蒸しケーキ物語 (@suzuchiu) 2021年3月14日
要するに短歌定型ってそもそも何なの?という定義をすでに"短歌"として存在する事象たちから帰納的に極限まで還元していったとき、最後まで残るのはこの二の句から三の句の緩急なのでは?ということで、そういう視点に立つと掲出歌はむしろやたら短歌短歌した感じに読めてきませんか、という。
— 続続続・すずちう風蒸しケーキ物語 (@suzuchiu) 2021年3月14日
【補足】8月に久石さんの歌集『サウンドスケープに飛び乗って』のオンライン批評会があり、パネリストを務めさせていただいた。その中でも久石さんの韻律観みたいな部分についてけっこう話ができたので個人的にはよかった気がしている。
\お知らせ/
— 久石ソナ/第一歌集『サウンドスケープに飛び乗って』 (@sona_hisa) 2021年8月8日
私の歌集『サウンドスケープに飛び乗って』(書肆侃侃房)の批評会が開かれます!
パネラーに
初谷むいさん(@h_amui )
鈴木ちはねさん(@suzuchiu )
𠮷田恭大さん(@nanka_daya )
ゲストに山田航さん(@YM_WT )
が来てくださいます!
8月22日20時からzoomにて!よろしくお願いします!! pic.twitter.com/9yHhrQXTRW
珈琲が体の一部になったのでこぼさず歩くことができます
— 続続続・すずちう風蒸しケーキ物語 (@suzuchiu) 2021年4月18日
/谷川由里子『サワーマッシュ』(左右社 2021.3.21 )
谷川さんの歌の美質のひとつとして個人的に思うのは、こういうある種のロジカルさというか、ただごと歌的な思考を極私的な愉楽へと昇華していく過程を見せられてるような感じがするところだと思う。思考そのものの快楽というか。
— 続続続・すずちう風蒸しケーキ物語 (@suzuchiu) 2021年4月18日
解説で大森さんがこの歌について「コーヒーカップに変身しかかっている」と評しているのだけど、僕の印象はそうではなくて、単に一般的な事実どうしを結びつけた一般論を言っている(体内に取り込まれた珈琲はもうこぼれないので、私は私が飲んだ珈琲をこぼさずに運ぶことができる)ように思われる。
— 続続続・すずちう風蒸しケーキ物語 (@suzuchiu) 2021年4月18日
大森さんの読みはたぶん、116ページの
— 続続続・すずちう風蒸しケーキ物語 (@suzuchiu) 2021年4月18日
珈琲をそそがれるとき丸ごとのコーヒーカップにわたしはなれる
を受けていると思うのだけど、連作という括りがない中で、どこまで別の歌の印象を引き寄せて読めばいいのかというのは難しいところでもあると思う。
似たような歌の極端なやつでいうと、
— 続続続・すずちう風蒸しケーキ物語 (@suzuchiu) 2021年4月18日
あの世から呼べばこの世の公園の花のパネルもあの世なんだね(同120ページ)
とかもそう。谷川さんの中にある確固たる理屈に基づいている、という感じ。
【補足】5ツイート目の「120ページ」は「127ページ」の誤り。『サワーマッシュ』の刊行は間違いなく今年最良の出来事のうちのひとつだと思う。
淀川は広いな鴨川とは全然ちがうなほとんど琵琶湖じゃないか
— 続続続・すずちう風蒸しケーキ物語 (@suzuchiu) 2021年4月24日
/橋爪志保『地上絵』(書肆侃侃房 2021.4.7)
橋爪さんの知ってる歌ではこれがいちばん好きなのだけど、淀川水系スペシャルという感じがして楽しい。淀川〜鴨川〜(疏水)〜琵琶湖の水は全部ひとつづきで、でもそのことをわかっていようがいまいが、この歌の中ですべての水がひと続きである感じは変わらないというか、もっと直観的なものだと思う。
— 続続続・すずちう風蒸しケーキ物語 (@suzuchiu) 2021年4月24日
淀川は/広いな鴨川/とは全然/ちがうなほとんど/琵琶湖じゃないか
— 続続続・すずちう風蒸しケーキ物語 (@suzuchiu) 2021年4月24日
という印象と
淀川は広いな/鴨川とは全然ちがうな/ほとんど琵琶湖じゃないか
という印象があって、初読の印象では前者なのだけど、何度も反芻しているとだんだん後者に移行していく感じがするのも楽しい。韻律から声への移行。
こういう二重性というかメロディの重層性みたいなのは、へたに字開けとか読点とかその他各種約物で区切らないからこそ出せていると思うのだけど、わりとこの辺はわかりやすさ重視で作ってしまう人も多いところだよなと思う。
— 続続続・すずちう風蒸しケーキ物語 (@suzuchiu) 2021年4月24日
えいやって何かを振ればあたしでもこの戦争を 何なんだろう
— 続続続・すずちう風蒸しケーキ物語 (@suzuchiu) 2021年6月12日
/豊冨瑞歩「目的地」(「つくば集」創刊号 2021.5 所収)
要するに生きるということは本質的に賭けであり、また戦争でもあるということなのだけど、そういう言語化しきれない途方もない事柄を認識してしまったときの「何なんだろう」という立ち止まりがあって、一字開けのエアポケットが差し挟まれることでその思考の加速と消散というのがよく出ていると思う。
— 続続続・すずちう風蒸しケーキ物語 (@suzuchiu) 2021年6月12日
メリー・ゴー・ロマンに死ねる人たちが命乞いするところを見たい
— 続続続・すずちう風蒸しケーキ物語 (@suzuchiu) 2021年6月27日
/平岡直子『みじかい髪も長い髪も炎』(本阿弥書店 2021.4.26 )
「メリー・ゴー・ロマン」は「メリー・ゴー・」が任意のら行の詞を導く枕詞的なものかとなんとなく思っていて、今日のトークイベントの中では「メリー・ゴー・ロマン」で単体の造語というか造概念?みたいな感じで語られていて、そうなのか〜と思ったのだけど、
— 続続続・すずちう風蒸しケーキ物語 (@suzuchiu) 2021年6月27日
当然にメリーゴーランドの円環運動のイメージというか、一見美しいけど同じことの繰り返しというような醒めた世界像をも寓意したフレーズだと思う。
— 続続続・すずちう風蒸しケーキ物語 (@suzuchiu) 2021年6月27日
それはある種のロマン主義の軽薄さというか、口では「ロマンに死ねる」と吹聴しながら実際にはそうしない、という人たちが現れては去っていくさまでもあって、そういう人たちに、「本当に?」という問いを突きつけたい、というところで、この歌は一周回ってロマン至上主義への宣言という感じもある。
— 続続続・すずちう風蒸しケーキ物語 (@suzuchiu) 2021年6月27日
「命乞いするところを見たい」というのは征服欲や支配欲というか、それ自体わりと普遍的な暗い欲望でもあると思うのだけど、似非ロマン主義者をロマン主義の理屈で屈服させようというのだから、それはリアリストの立場からの皮肉ではないと思う。
— 続続続・すずちう風蒸しケーキ物語 (@suzuchiu) 2021年6月27日
【補足】2ツイート目「今日のトークイベント」というのは、6月27日に神保町ブックセンターで開催された谷川さんと平岡さんのトークイベント「二冊の歌集の宇宙遊泳」のことで、私はオンラインで視聴していた。谷川さんと平岡さんがお互いの歌集について言及していくスタイルで面白かった。
【イベント情報】6/27(日)17時~歌人の谷川由里子さんと平岡直子さんのトークイベントが決定しました📚会場、オンラインどちらもご参加可能!
— 左右社 (@sayusha) 2021年6月7日
~二冊の歌集の宇宙遊泳~『サワーマッシュ』(左右社)『みじかい髪も長い髪も炎』(本阿弥書店)刊行記念トークイベント▶︎https://t.co/wTnZqiXUIb pic.twitter.com/16RsUuSZfR
ノスタルジーの窓から見てるスナイパー ああ、優勝旗が返還される
— 続続続・すずちう風蒸しケーキ物語 (@suzuchiu) 2021年8月5日
/瀬口真司「プライベート・ソウル」(「ねむらない樹」vol.7 2021.8 )
"優勝旗"という事物の、あるいは「優勝旗返還」というイベントのありさまについて考えたときに、それが本質的にループしているということがわかると思う。優勝旗という天体が何らかの大会という空間上の任意の一点を通過する周回軌道をえんえん廻りつづけているイメージ。
— 続続続・すずちう風蒸しケーキ物語 (@suzuchiu) 2021年8月5日
この"優勝旗"が描く周回軌道と、それが定期的に通過する「返還」→「授与」というイベントに挟まれる大会の領域を、外部から観測している視座があって、それが"スナイパー"の視線なのかなあというのをなんとなく思う。
— 続続続・すずちう風蒸しケーキ物語 (@suzuchiu) 2021年8月5日
ここでは優勝旗の運動は周回運動なので、それを軌道の外から見る観測者は、ループする世界で同じ"返還"現象を何度も観測することになって、そのたびに優勝旗を返還したり授与したりするたびに流れるあの音楽(名前がわからない)が流れ続ける。
— 続続続・すずちう風蒸しケーキ物語 (@suzuchiu) 2021年8月5日
だからこの"ああ、"には、"優勝旗"という事物が迎える存在感のピークに対する恍惚がある一方で、同じ事象の繰り返しに何ら影響を及ぼしえない観測者としての絶望もあるように思う。もちろん"スナイパー"はその気になればいつでも引き金を引くことができるはずなのだけど、彼にはそれができない。
— 続続続・すずちう風蒸しケーキ物語 (@suzuchiu) 2021年8月5日
なぜ引き金をひけないかというところに、彼が"ノスタルジー"という視座からの観測者であるということが通じていて、ループ構造を持ってしまった/持たせてしまった過去と、それに対する終わりのない陶酔と退廃、というモチーフが見えてくる気がする。短歌だからそういう時間軸のない読みがゆるされる。
— 続続続・すずちう風蒸しケーキ物語 (@suzuchiu) 2021年8月5日
【補足】おそらく今年書いた中でいちばん怪文書じみた一首評なのだけど、4ツイート目の「あの音楽」は以下リンクものをイメージしていた。これがBGMとして一首の中でえんえんループし続けていることのやばさ。
www.youtube.com
マスクもしないでピンクのフリスビーを投げ合う男の子、女の子 雨のなか
— 続続続・すずちう風蒸しケーキ物語 (@suzuchiu) 2021年10月7日
/浪江まき子「プリンシパル」(「半券」3号 2021.9 所収)
「ピンクの」までが4・4・4で、「フリスビーを」の6で膨らむ感じがすごく短歌らしさを担保しているような印象がある。まあ、「を」は二の句と三の句を掛け持ちしてるみたいな感じだけど。
— 続続続・すずちう風蒸しケーキ物語 (@suzuchiu) 2021年10月7日
二の句三の句が一体化してる感じとか下句三分割の感じはわりと今風というか、個人的にはこういう韻律気持ちいいよねえという気持ちになる。
— 続続続・すずちう風蒸しケーキ物語 (@suzuchiu) 2021年10月7日
歌意を追っていくと、「マスクもしないで」の眉のひそみ、ピンクの物体の空中を行き交うさま、人物、そして最後に「雨のなか」ということで、結句まで行ってかなりイメージが反転するというか、後から遡って全部の景がずぶ濡れになるのだけど、
— 続続続・すずちう風蒸しケーキ物語 (@suzuchiu) 2021年10月7日
これは一般的な記述においては逆なのではというか、まず「雨のなか」という背景の前提から述べられるのが妥当なところ、マスクしてないことのほうがはるかに前景に出てきて、雨のほうが認識のうえで後回しにされていることの異様さ。時節柄というか、有事における認識の変容のありさまというか。
— 続続続・すずちう風蒸しケーキ物語 (@suzuchiu) 2021年10月7日
だからこの歌はまあいわゆるコロナ詠なんだけど、コロナ詠にもこういうふうに普遍性へと通じる道筋はちゃんとあるんだなというところで、個人的にはハッとするところがあった。
— 続続続・すずちう風蒸しケーキ物語 (@suzuchiu) 2021年10月7日
ふつうに考えてモチーフは本質じゃないんだからそりゃそうなんだけど、それでも他のことをやるよりもずっとハードルは高いと思う。みんながただ表層を撫でているもので本質を捉えるということ。
— 続続続・すずちう風蒸しケーキ物語 (@suzuchiu) 2021年10月7日
一月の部屋緩やかに温まり午後二時以降冷めるにまかす
— 続続続・すずちう風蒸しケーキ物語 (@suzuchiu) 2021年10月9日
/相田奈緒「冷気」(「半券」第3号 2021.9 所収)
これは見事に"何もしていない"をしている歌というか、"ただそこにいる"という形でこの世界に内側から関与しているという歌なのだけど、それが語り手の主体的な関わり方であるがゆえに、一月のある1日のゆるやかな時間の移り変わり、という感じがそのままのスケールで伝わってくるような感じがする。
— 続続続・すずちう風蒸しケーキ物語 (@suzuchiu) 2021年10月9日
個人的に持っているモデルとして、「短歌の結句と初句はつながっている」という理論があって、要するに短歌という型式にはループ、ないし螺旋状の構造があるよ、という話なのだけど、この歌はその構造に本当にうまく使っているという印象がある。
— 続続続・すずちう風蒸しケーキ物語 (@suzuchiu) 2021年10月9日
1年とか1日というのはおよそ同じようなサイクルで経過していくのだけど、一方で同じ1日はもう二度と来くることがないという普遍性と一回性が両立してるような状態があって、そのある1日のありがたみが短歌型式の円環構造の中ですごく増幅されるというか、一首の中で永遠になるみたいな気がしてくる。
— 続続続・すずちう風蒸しケーキ物語 (@suzuchiu) 2021年10月9日
だからなんというか、体感というか、〈わたし〉と世界との関わり合いによって担保される、かけがえのない1日の、かけがえのない時間だ、ということなのだと思う。
— 続続続・すずちう風蒸しケーキ物語 (@suzuchiu) 2021年10月9日
【補足】3ツイート目の「結句と初句はつながっている」理論は先に挙げた瀬口さんの歌の読みにも通じてくる話(というかこれをちゃんと言わないから怪文書チックになっていると思う)。
東アジアの日本の東京の シニシズム 畳の床で寝る
— 続続続・すずちう風蒸しケーキ物語 (@suzuchiu) 2021年10月27日
/牛尾今日子「TOKYO 2020 (2)」(2021.10.26 「うたとポルスカ」https://t.co/VlhmEIxzLb)
東アジアの日本の東京、は、われわれは都合よく日本もまたアジアの一員なのだということを忘れる、みたいなことを言外に含んでいるのかなと思う。なんか語に謎の圧があって、短歌のオーソドックスな韻律とは無関係に「東アジアの/日本の/東京の」という受け止めしかできない感じがある。
— 続続続・すずちう風蒸しケーキ物語 (@suzuchiu) 2021年10月27日
「シニシズム」というのはたぶん冷笑主義のことで、このシニカルさは、一字開けにはさまれることによる統語的な全方向性をもって、「東アジアの日本の東京」というあたりまえのはずの言辞を咀嚼するのに謎の労力を費やしている読者たるこのわたしにまずかかってくるという構図があるような気がする。
— 続続続・すずちう風蒸しケーキ物語 (@suzuchiu) 2021年10月27日
「畳の床で寝る」のは読者たるわたしではなくて歌の〈わたし〉なのだけど、この畳のごわついて少しひんやりした感触やすえた匂いの感じ(特に根拠はないけど新しい青い畳の床を想像しない)、もまた、なんとなく「シニシズム」にかかっているというか、
— 続続続・すずちう風蒸しケーキ物語 (@suzuchiu) 2021年10月27日
2021年の東京において畳の床で寝る人の割合の高くなさ(なんとなくの推定)と、げんに"いま""ここ"で畳の床に臥している〈わたし〉の確からしさの間の微妙なギャップが、そこにシニシズムの嵌入を招いているのではないかと思う。
— 続続続・すずちう風蒸しケーキ物語 (@suzuchiu) 2021年10月27日
べつに「畳の床で寝る」ことに特段のいじけた感じがあるわけではなく、ただその感触と、"東アジア"からフォーカスして"東京"という都市の規模で物事を捉える巨視的な視座が縦書きの上下にある構図には、"シニシズム"が間に置かれうるということの、ふしぎな納得感というか、なんて言えばいいんだろう。
— 続続続・すずちう風蒸しケーキ物語 (@suzuchiu) 2021年10月27日
ラジオから誰か終わりのあいさつを待ってるというわけでもないが
— 続続続・すずちう風蒸しケーキ物語 (@suzuchiu) 2021年10月27日
/牛尾今日子(同)
この「終わりのあいさつ」はむろん玉音放送なのだけど、ラジオから玉音放送(に相当する誰かの何か)は流れないし、べつにそれを(誰も)待っているわけでもない、というとき、そこには最終的に誰もいなくなって、ただこの一首だけが見せけちみたいな感じで残るみたいな印象がある。
— 続続続・すずちう風蒸しケーキ物語 (@suzuchiu) 2021年10月27日
「誰か」が漠然と係り先を見失っていることも誰もいない感じを強めていて、東京にはもちろんたくさん人がいるのだけど、本質的な意味で現在進行形の歴史の当事者たろうとする人が"誰もいない"ということが、非在の玉音放送を待つ非在の人の姿(ネガ)として立ち現れるというのも読みすぎでもないと思う。
— 続続続・すずちう風蒸しケーキ物語 (@suzuchiu) 2021年10月27日
夏のくびれの部分にあったイヤリング 車の鍵みたいで似合ってた
— 続続続・すずちう風蒸しケーキ物語 (@suzuchiu) 2021年11月3日
/左沢森「銘菓」(https://t.co/opdIQB0rla)
夏に「くびれの部分」があるという把握、たしかに夏の夏らしさを時系列でグラフにしたときに、そんなにきれいな放物線は描かずに、どこかに一度減衰してまた盛り返すみたいなフェーズはあるよなと思う。「日陰はちょっと涼しい」くらいの「夏のくびれ」。
— 続続続・すずちう風蒸しケーキ物語 (@suzuchiu) 2021年11月3日
夏だけど、夏の中の、ちょっとひんやりとした時空。「イヤリング」を「車の鍵みたい」と言うとき、なんとなく形状のディテールというよりも、その"揺れ方"を想起する印象がある。車の鍵みたいな揺れ方。「イヤリング」の揺れがイメージされることで、その「夏のくびれ」の時空はより確からしくなる。
— 続続続・すずちう風蒸しケーキ物語 (@suzuchiu) 2021年11月3日
こういう感触を残すことができるのがたぶん口語体における「-タ」形の強みで、最後にアクチュアリティを差し引くことで、余韻というか、夏であれば夏の、もう"いまここ"にはない、取り戻せない感覚みたいなものがいっそう強く立ちあがるのではないかと思う。
— 続続続・すずちう風蒸しケーキ物語 (@suzuchiu) 2021年11月3日
そして詩の中には光る犬がいてその前と後ろの二千年
— 続続続・すずちう風蒸しケーキ物語 (@suzuchiu) 2021年11月23日
/笹川諒「素描」(webサイト「うたとポルスカ」2021.11.20公開)https://t.co/apC0QiROHa
この歌は「そして」から始まるのがとても良いように思う。歌の中で歌意として示唆されているテキストの余白の領域を四次元的に捉える試みがこの歌自体にも適用されるというか、すべての"書かれた"テキストに対してこういう感慨があるというようなことを言われている気がする。
— 続続続・すずちう風蒸しケーキ物語 (@suzuchiu) 2021年11月23日
「光る犬」という一点、それは語り手が読んでいるテキスト上の何かめざましい任意の一点だと思うのだけど、そこを起点に、同一平面、あるいは同一空間だけでなく、その"書かれた"前後に伸びる時間軸に思いを馳せるということ、またそれ自体もまた"書かれる"ことで自己言及の性質を帯びるという二重性。
— 続続続・すずちう風蒸しケーキ物語 (@suzuchiu) 2021年11月23日
たぶんもう100回くらいは洗ってるTシャツをどんどん好きになる
— 続続続・すずちう風蒸しケーキ物語 (@suzuchiu) 2021年11月26日
/中村美智「そこから春」(「羽根と根」10号 2021.11)
「100回くらいは」の"は"に、「100回くらい」のもっともらしさと裏打ちというか、てきとうに言った「100回」ではないという感じがする。たとえば週に一回着てるとして、一年はだいたい五十週ちょいだから、二年着てたらだいたい百回ぐらいだな、ぐらいの裏付けがありそうというか。
— 続続続・すずちう風蒸しケーキ物語 (@suzuchiu) 2021年11月26日
洗うというのは当然それだけ着てるということで、そのTシャツを着た回数を類推することは、それだけそのTシャツとともにあった日々の暮らしを振り返るということでもあって、「Tシャツをどんどん好きになる」というとき、Tシャツだけでなくむしろその暮らしの部分を肯定してるような印象がつよくなる。
— 続続続・すずちう風蒸しケーキ物語 (@suzuchiu) 2021年11月26日
下句は韻律もよくて、「Tシャツをどんどん好きになる」の「どんどん」が、どんどん来る感じがする。
— 続続続・すずちう風蒸しケーキ物語 (@suzuchiu) 2021年11月26日
一首としては「Tシャツ」に「たぶんもう100回くらいは洗ってる」と「どんどん好きになる」という修辞がふたつ併置でぶら下がってるみたいな感じなのだけど、このふたつの修辞がどちらもプラスのことを言っている、プラスとプラスが順接で並んでる、という感じは実はけっこう不思議な構図だと思う。
— 続続続・すずちう風蒸しケーキ物語 (@suzuchiu) 2021年11月26日
短歌的な考え方としては係る一方が「どんどん好きになる」みたいな強いプラスであればあるほど、その前には(にもかかわらず)的な逆接を置きたくなりがちだし、そのように読もうとしてしまいがちだと思うのだけど、この歌ではただひたすら末広がりみたいな感じがあってそうさせない凄味がある気がする。
— 続続続・すずちう風蒸しケーキ物語 (@suzuchiu) 2021年11月26日
【補足】「羽根と根」の10号に「青春はいちどだけ」というタイトルの散文を寄稿させていただいた。内容的には、そもそも"同人"ってなんなんだろう、みたいなことを考えていたら必要以上に感傷的になってしまったような感じ。「場」の意義と刹那主義の対立、そしてその中で続けることの難しさ。
【おしらせ】
— 短歌同人誌「羽根と根」【文フリ東京セ-8】 (@hanetonetanka) 2021年11月19日
2021.11.23(火・祝)に開催される第33回文学フリマ東京で、『羽根と根』新刊の10号を頒布いたします。ブースはセ-08です。目次は以下画像です。どうぞよろしくお願い致します。 pic.twitter.com/78h0bThP1y
一一九二二九六〇年にきっと幕府を開いてあげる
— 続続続・すずちう風蒸しケーキ物語 (@suzuchiu) 2021年11月28日
/品川佳織「続編」(「半夏生の本」vol.3 2021.11)
「一一九二二九六〇」は音数的には「いちいちきゅう/にいにいきゅうろく/ぜろねんに」だと思うのだけど、語呂としては「いいくにつくろう」。真にうけると「いっせんひゃくきゅうじゅうにまんにせんきゅうひゃくろくじゅう」年。
— 続続続・すずちう風蒸しケーキ物語 (@suzuchiu) 2021年11月28日
このほかに、個人的にはこの文字列の中に「一九九六」が見えるようなところがあって、たぶんこの連作自体が現在と、(たぶん)近過去の幼少時代を往還しているからそう感じるのだけど、過去日付の「きっと」になると何か可能世界論的な抒情と、ありえたかもしれない過去への憧憬が立ち上がる気がする。
— 続続続・すずちう風蒸しケーキ物語 (@suzuchiu) 2021年11月28日
ここから先はほんとうに個人的な見解なので話半分でいいのだけど、「過去を変えること(回復/再生/救済)」というのは、それが散文的なロジックの積み上げでは不可能であるからこそ、韻文においては主題になりうると思っていて、過去に向けての「きっと」というのは韻文だから可能な語法だと思う。
— 続続続・すずちう風蒸しケーキ物語 (@suzuchiu) 2021年11月28日
信号の向こうに海が見えている 青になったら左に曲がる
— 続続続・すずちう風蒸しケーキ物語 (@suzuchiu) 2021年12月19日
/酒田現「青になったら」(「Q短歌会」第4号 2021.11)
車で、信号待ちをしていて、信号の向こうに海が見えていて、「信号が青に変わったら左に曲がろう」ということを思っている、思い直している、という歌だと思うのだけど、重要なのは「青になったら」以下の思考は、一度はそのことを忘れていないと、"再認識"の形では浮かんでこないということだと思う。
— 続続続・すずちう風蒸しケーキ物語 (@suzuchiu) 2021年12月19日
だから上句で海の存在に気づいて、それを見ている〈私〉は、完全に海のほうに思考を持っていかれて、信号のことも、このあと自分がどちらにハンドルを切るのかも、そもそも自分が運転者であることも全部忘れていて、一字開けを挟んでもう一度それらを全部思い出している、という読みが成り立つと思う。
— 続続続・すずちう風蒸しケーキ物語 (@suzuchiu) 2021年12月19日
こういう認識の変遷というか、思考の飛び方って実際けっこうあるというか、客観的には微細なんなけど主観的にはかなりダイナミックな認識の移り変わりというものを、言葉にするのは難しいのだけど、すごくリアリティを持って提示してきていると思う。
— 続続続・すずちう風蒸しケーキ物語 (@suzuchiu) 2021年12月19日
重ねて言うと、「青になったら左に曲がる」という思考の言語化は、予言的な言明であって、実際にその予言が成就するかどうかまでは語られていないのも良いと思う。ここではあくまでも"左折"は数ある可能性のうちのひとつとして提示されている。
— 続続続・すずちう風蒸しケーキ物語 (@suzuchiu) 2021年12月19日
実際にはそのあと何かを思い直したり、「左に曲がる」と思いながら右に曲がってしまうこともあるかもしれない(不条理①)し、そのまま真っ直ぐ海へとダイブしてしまう可能性もある(不条理②)わけで、予言の時点ではそれらの可能性はすべてまだ排除されないと思う。
— 続続続・すずちう風蒸しケーキ物語 (@suzuchiu) 2021年12月19日
そういう中で、「左折」という可能性を選択しようと言明しているということは、必然的に「そうではなかった可能性」をこれから捨象しようということで、その「これから選ばないことになる可能性」への目線というか手つきというか憧憬みたいなものもなんとなく感じさせる歌だと思う。
— 続続続・すずちう風蒸しケーキ物語 (@suzuchiu) 2021年12月19日
かにかまやプリクラを縦に裂くとき楽しく なく ない? 歯を食いしばれ
— 続続続・すずちう風蒸しケーキ物語 (@suzuchiu) 2021年12月30日
全力の死生観なら全力で ホワイトハウスのかたちのケーキ
/佐倉誰「かにかまグルーミング」(ネットプリント 2021.12.24 ) https://t.co/5TDonMBzwX
掲出1首目、ひとを試してる感がすごいというか、ちょっと理不尽すぎてうける。途中までとても楽しそうな調子で語られて、うっかりそれへの同調を用意してしまうと急に問いが"なく"のほうに転回されて、そのまま引っ叩かれてしまう。
— 続続続・すずちう風蒸しケーキ物語 (@suzuchiu) 2021年12月30日
掲出2首目、そう言われてみるとたしかに生きるというのは何よりもまずその死生観を生きるということだなあという気持ちになる。おそらく高度資本主義社会に生きるわれわれにも、高度資本主義社会の死生観というものが知らず知らずのうちにちゃんと?インプットされている。
— 続続続・すずちう風蒸しケーキ物語 (@suzuchiu) 2021年12月30日
なんであれ己の死生観というものをちゃんと全うせよということなんだけど、一字開けを挟んで下句がそれとどういうふうに関係しているのかはけっこう難しい。「ホワイトハウス」は基本的には世俗的な権力を掌る場所で、一見すると信仰の文脈とは程遠い。
— 続続続・すずちう風蒸しケーキ物語 (@suzuchiu) 2021年12月30日
ただ逆説的には短歌の中で上下で括られているということは、この短歌の中では「死生観」を「ホワイトハウス」は象徴しうる(短歌的喩)ということで、それが「ケーキ」として食べ尽くされる(消費)イメージと相俟って、なんとなく前述の高度資本主義社会の死生観、みたいなものを個人的にはイメージする。
— 続続続・すずちう風蒸しケーキ物語 (@suzuchiu) 2021年12月30日
じゃあその「高度資本主義社会の死生観」って何なんですかというと、たぶん「死を捨象する」態度なのではないかという気がする。われわれは消費する主体あるいは消費される客体として、つねに「現世のことだけ考えろ」と要求されていて、おそらくこれを内面化することもまた一種の死生観なのだと思う。
— 続続続・すずちう風蒸しケーキ物語 (@suzuchiu) 2021年12月30日
資本主義社会においてはすべてのリソースが資本そのものの増大と領土拡大へと向けられるべきなので、来世に向けて功徳を積むとか天に徳を積むみたいな旧来の志向は根本的に資本主義のベクトルには反するわけなのだけど、そのネガもまた死生観ではあるよねというのはひとつの気づきだと思う。
— 続続続・すずちう風蒸しケーキ物語 (@suzuchiu) 2021年12月30日
まあだからいっそのこと「われわれは資本によって生かされている!!!」ぐらいまで振り切ってみたらどうやねん的な皮肉のニュアンスも掲出歌にはあるかもしれない。
— 続続続・すずちう風蒸しケーキ物語 (@suzuchiu) 2021年12月30日
いかがでしたか?
個人的には、まとめながら「これ、ほとんどトゥギャッターでよかったんじゃね?」と思いました。
あと特に後半、もうちょっと簡潔にものを書けないのかと思います。
Twitterで一首評した短歌は上に引いた以外にもけっこうあって(引いたのは3分の1くらい)、引かなかった歌も含めて、どれも好きな歌でした。
それでは皆様よいお年をお過ごしください。
2020年の短歌まとめ
今年は本当に例年になく多忙で、去年に輪をかけて薄い内容になると思いますが、個人的な振り返りも兼ねて、やっていきたいと思います。
睡眠時間は時間経過に算入しないでほしい
— 予言(初版本は交換対応中) (@suzuchiu) 2020年12月29日
まず、私事ですが、昨年末に第二回笹井宏之賞大賞というものをいただきまして、結果として今年の夏に歌集を上梓しました。
www.kankanbou.com
栞文を笹井賞選考委員の皆様からいただいたほか、装画を漫画家の川勝徳重さん*1に描いていただきました。
最近やっと装画の季節感に近づいてきて、よりいっそういい感じになっています。
ほか、歌集の刊行にあたってお力をいただいたすべての皆様に、この場をつかって改めて感謝申し上げます。
また、初版本については、内容に誤りがありましたため、訂正済みの第二版との交換を実施しています。すでに交換に応じてくださった皆様には、心より御礼申し上げます。(第二版には、帯表1右下および帯背表紙下部に「第二版」の表記があります。)
初版本をご購入された方につきましては、お手数をおかけしまして申し訳ございませんが、回収および交換にご理解ご協力のほど、何卒よろしくお願い申し上げます。
www.kankanbou.com
以下、気になった短歌の感想です。
悪友がくれたオレンジ色のガム一生分噛みホームで捨てる
/榊原紘『悪友』(書肆侃侃房 2020.8.4)
所収の「悪友」という連作は第二回笹井賞を僕の「スイミング・スクール」という連作と同時受賞した作品なのだけど、ほんとうに真逆みたいな作品が並んだような印象を受けて、個人的にはとても面白かった。
個人的に思う「悪友」の美点は、なんといっても、語り手から見た「悪友」なる人物のこと、あるいはその関係を、いろいろな角度、観点から述べているにも関わらず、「悪友」なる人物の像が全く浮かんでこないところではないかと思う。
ふつう、短歌の連作(あるいは主題制作)における方法論では、同じテーマについて複数首の短歌を積み上げていく中で、それらの歌たちによって総合的に結ばれるひとつの焦点があると思うのだけど、「悪友」の場合、ひとりの他者と語り手との関係を五十首かけて描きながら、一首一首の歌がもたらすイメージは拡散してしまい、最終的に「悪友」のすがたは立ち現れてこない。これは逆説的には、語られる対象としての「悪友」は、連作における焦点ではなかった、ということでもある。
でも、他者とは本来そういうものなのでは、という気もしてくるというか、他者とは本来「わかりえない」ものではないかということに思い至る。むしろ僕たちが任意の他者をこれこれこういう人物だ、というふうに一種のキャラ的な枠に落としこんでしまったり、そういう認識・消費の枠組みを他者とのかかわりの中で求めてしまうことのほうが、はるかに不誠実なのではないか。「悪友」における「悪友」は、そういう「キャラ」概念を越えていて、予定調和を拒絶する。そこがすごく良いと思う。
ニコニコしたいはニコニコなんかできねぇよっていうときそこでニコニコしたい
/山本まとも「アンガーマネジメンターまとも」(「かばん」2020.4)
※2020.11.31 23:07追記
逆に、キャラ読みを強化していく方向で、際立ったのが「アンガーマネジメンターまとも」だと思う。
短歌は一人称文学だというときに、ある作品の良さについて、テクストとしての短歌の良さなのか作者としての「歌人」のキャラの良さなのかというのは明確な峻別が難しいと思うのだけど、まともさんの場合ははっきりとキャラの良さだと言いきれる気がする。語り手のキャラクター像ありきで面白がれる、そういう方向に振りきっているのがすごくいいと思う。
重要なのは、そのキャラクター像が何か嘘くさいとか、盛られてるとか感じないところで、どこまでも本気で等身大なのだというのが伝わってくるということだ。でも、生活者としての(まともさんの本名)さんと、歌人山本まともは一緒ではないわけで、そのへんのバランス感覚がいいよなあと思ったりする。
テーマとしての「アンガーマネジメント」というのは、感情労働が求められる現代社会における、一種の要求スキルなのだと思うのだけど、それにあくまで愚直に取り組む主体、というところで、単なる自己戯画化にとどまらない、切実な面白さがあると思う。
月がひかってる月がひかっているチャンスを棒に振るように生きて
/谷川由里子「ドゥ・ドゥ・ドゥ」(「うたとポルスカ」2020.1.24)
utatopolska.com
今年の出色はなんといっても谷川さんのこれだと思う。
谷川さんの短歌は基本谷川さんの声で頭の中で再生されてしまうのだけど、これが谷川さんの文体のせいなのか、谷川さん個人と面識があるからなのかわからない(おそらくどっちもある)のだけど、この「ドゥ・ドゥ・ドゥ」はそれがとにかくすごかった。
ひとくちに文語/口語といっても、実際は位相はもっと複雑で、また現代語における書き言葉は言文一致体がベースにあるので、純粋に書き言葉と話し言葉の関係ともなると、単純な二項対立に落としこむことはおよそ不可能だと思うのだけど、現時点で最もシンプルかつ自然に「話し言葉」としての口語体になっているのは、おそらく谷川さんの文体なのだと思う。
特に「チャンスを棒に振るように」の「ように」の軽妙さというか空振り感と最後の「生きて」の不思議と真剣というかリアルな感じが嫌味なく同時にスッと入ってくるのは、やっぱりこれが谷川さんの文体だからだとしか言いようがない気がする。
雰囲気イケメンって別に悪いことじゃないでしょう、そして角度の変わるクレーン
/阿波野巧也『ビギナーズラック』(左右社 2020.7.30)
今年はとにかく第一歌集ラッシュだったので、まだ読めていない歌集も多いのだけど、後に2020年という年を短歌の文脈で想起するときには、「なんかやたら第一歌集が出た年だったね」という思いだされ方がされるのではないかと思う。個人的にも、2020年上梓組の皆さんには勝手に同期的な親近感を覚えている。皆さん各自のフィールドでどうか達者で短歌を続けてほしい。
その中でも『ビギナーズラック』に言及することには特に深い理由はないのだけど、口語短歌における韻律感みたいなものが更新されつつあるよね、ということが特に感じられる歌集だと思う。
「雰囲気イケメンって/別に悪いことじゃ/ないでしょう」はきっと5~10年ぐらい前までだったら「大破調」だったと思うのだけど、今はこういう韻律が違和感なく「短歌っぽさ」のレベルでさらっと読める、という作者/読者層がけっこう厚くなってきているような実感がある。解説*2で斉藤斎藤さんがこの歌を引いて(直接この歌への言及なのかは確証がないけど)「早口になる」と述べているのだけど、これは字余りとしての「大破調」ベースの読みだ。僕の漠然とした感覚では、これは破調というよりも、(特に初句の)韻律そのものが拡張されているとうか、べつにそんなに早口に感じることもなく、平明な調子で読んでいいんじゃないかという感覚がある。
ちんちんとカシオペア座の両方を見ることのできる体勢でした
/藤田描『ちんちん短歌』(ちんちん短歌出版世界 2020.11.22)
文フリの短歌島が知り合い祭りみたいな感じになってしまって久しいのだけど、この『ちんちん短歌』は久しぶりに文フリという場の本質を強く感じることができて、とても良かった。
11月の東京文フリが開催されたことは、今にして思えば奇跡のようなものだったのではないかと思うのだけど、その奇跡のおかげで(それと平出奔さんが教えてくれたおかげで)、手にすることのできた書物もあった。
歌会にしてもそうだけど、zoomとかで代替不可能な部分はどうしてもあるというか、結局はリアルな場でしか出会えないものとかわからないこととかがいっぱいあるよなと強く思った一年だったと思う。
人間の営みというのはそう簡単には変わらない。ニューノーマルなんてものもどうしてもフレーズありきの机上の空論でしかないように思えてしまう。
まだ更新するかもしれないですが、とりあえずそばを茹でるので、ここまでで公開したいと思います。
皆様よいお年をお過ごしください。
2019年の短歌まとめ
いつもお世話になっております。 1年ぶりの更新ですが、今年は去年に輪をかけて短歌を読めていません。すみませんでした。
2019年、体感的には3年くらいあった気もするし、気を失ってる間に一瞬で過ぎてしまったような気もする。
— すこやか (@suzuchiu) 2019年12月26日
読めなかったなりにやっていこうと思います。よろしくお願いします。
ほっといた鍋を洗って拭くときのわけのわからん明るさのこと
/山階基『風にあたる』(短歌研究社 2019.7.23)
先に言ってしまうと、今年は『風にあたる』と『光と私語』の年だったなあというふうに個人的には思っていて、この2つの書物が出たことは後に一種のパラダイムシフトのように言われるんじゃないかという気がする。それがいいことなのかどうかはわからないけど。
具体的にどうしてそうなのかというと、この2つの歌集は明白に、口語短歌の文体構築における一般解をそれぞれ提示したと言えるのではないか思うからで、口語短歌の個人技と一回きりで使い回せない一発ネタの死屍累々の歴史の中から、普遍的で一般的な方法論が徐々に立ち上がりつつあるのではないか、ということをずっと思っていたのだけれど、やっと今年になって物質的な書物として出てきたんじゃないかと思う。また、それによって、口語短歌はこれからどんどん個人技ではなくなっていくし、これからの10年ぐらいで良きにつけ悪しきにつけ具体的にその方法論が体系化されていくだろうという気がする。
『風にあたる』の話に戻ると、山階さんがやっている(やってきた)ことというのは、基本的に<わたし>と<(他者)>、あるいは<(事物)>、この三者それぞれの間に立ちあらわれる空間像、およびその空間そのものの構成であると思っていて、これをものすごく雑に言うと「関係性」を書くのだということになるのだけれど、こういう空間構築そのものをゴールに設定して文体を構築する、という制作や読みの方法には一定の普遍性というか一般化への可能性がある。逆に読み手はその構造に気付いていないと、ほんらい読む必要のない文脈や物語を勝手に読み出だそうとしてしまい、結果としてつかみどころのない印象や関係が錯綜した印象を抱いてしまうのだけれど、すでにそうではない読者層、というものもまた生じつつあるのではないかと思う。
この方法論の普遍性はすごくて、例えばそれは<わたし>と<鍋>の間にも成立しうる。引用した歌にしても、単純な主観的な把握に基づく実景、というふうに読むよりも、<わたし>と<鍋>の間に成立する空間像、というふうに捉えた方が、受けとめ方としてより正確なのではないかという気がする。この認識は先月に『風にあたる』の批評会に行ってさらに強くなった。
ここはきっと世紀末でもあいている牛丼屋 夜、度々通う
/𠮷田恭大『光と私語』(いぬのせなか座 2019.3.19)
『風にあたる』の一般解の話と比べると、『光と私語』のそれのほうがわかりにくいかもしれないけど、個人的にはこちらのほうにより高い親和性を感じていたりする。
この歌も初出はたぶんそうとう前で、すでにある程度の人が知ってる歌なんじゃないかと思う。で、ここで言われている「牛丼屋」への憧憬ってすごくフラットで非人間的で余計なものがなくてすごくいいですよねという話なんだけど、こういう「事物にフォーカスする」という方法論もありえると思っていて、『光と私語』の歌の多くはそういう形で文体が築かれているという印象を持つ。要するに、事物がメインで<わたし>はそのときあくまでも観察する装置以上の振舞いをしない、最終的には事物に焦点が合うように構成するということなのだけれど、これもひとつの一般解で、いろんな場合に敷衍可能だと言えるのではないか。
あなたにも感情があるということを冬は忘れてしまいたくなる
/水沼朔太郎「飛び込んでくる」(『稀風社の水辺』稀風社 2019.11.24)
冒頭に書いた通り、今年はぜんぜん短歌を読めてないのもあって、自分のところで出した本からになってしまうのだけれど、本当にいい歌だと思うので入れます。
「あなたにも感情がある」と言われると、反射的に「感情がひとりのものであることをやめない春の遠い水炊き」(堂園昌彦)を連想してしまって、それはたぶん他者であるということの絶望的な絶対性という主題を共有しているからだと思うのだけれど、水沼さんの歌も「忘れてしまいたくなる」と言うことで、その忘れえなさ、逃れられなさが強まるなあという気がする。二句目「感情がある」だけちょっと圧が強まる感じもそうさせて、結果的には冬のわびしさと絶望的な他者性、だけが残る気がする。
なんというか、水沼さんは急に本当のことを言いだすのでびっくりするみたいな印象があって、この歌も連作の中で出会ったほうがより鮮烈な感じになるのではないかと思う。
会社員に一発ギャグは必要ない でも憧れる一発ギャグに
/中村美智「ベター・ザン」(「羽根と根」第9号 2019.11)
なんというか、最近「一字開け」のことをよく考えていて、一字開けにもいろんな一字開けがあるなあと思うのだけれど、こういう一見不要な、でもどう考えても読みに深い影響を及ぼしまくっている謎の一字開けみたいなものを目にする機会が増えたような気がする。
この歌はそもそも下句が倒置でなければ一字開けがなくても一首が成立するように思える(例:会社員に一発ギャグは要らないけど一発ギャグに憧れている)けど、そうしないほうが圧倒的に良い。でも、この一字開けによって語りの位相が変化しているかというと、していなくて、引き続き同じトーンで同じ話をしていると思うし、そこに書かれていない文脈が表されているようにも読めない。しいて言うなら一呼吸置くことで「でも」のニュアンスが強まるかなという気がする程度なのだけれど、それだけでは説明できないくらい、この一字開けには引きこまれてしまう。なんというか、「深淵」とでもいうべきか、虚無への穴がそこに開いているような印象を受ける。謎すぎる。
なにそのリュック コンセントじゃん笑 けれどもう化粧のような青梅の夕べ
/温「居酒屋から」(https://twitter.com/mizunomi777/status/1091750237696253952?s=21)
歌会で出会って気になったというか、面白かった歌。コンセントみたいなやつが縫い付けてあるリュック、たしかにある。「けれどもう」からの展開がツボに入って笑ってしまう。なんというか、「一方そのころブラジルでは!」みたいな勢いの強引な展開の仕方だ。
「化粧のような」も「青梅の夕べ」も、わかるような、わからないような、でも笑ってしまう。でもやっぱり、青梅の都心よりずいぶん近い山並みがいちめん夕焼けに染まってる感じもわかる気もする。
以上です。まだ読めてない本とかも来年頑張って読みます。良いお年をお迎えください。
2018年の名歌まとめ
2018年に読んだ短歌の中で個人的に名歌だと思ったものをちゃんとまとめておこうと思ったのでまとめます。順不同です。
名歌は数少ないですが、その名歌に出会うために短歌をやっているみたいな気持ちもある。
ほんとうにいい短歌というのはほとんどないので、短歌を読むということは砂金採りとかに似ていると思う。
— 電話・すずちう・音楽 (@suzuchiu) 2018年11月12日
にしんそばと思った幟はうどん・そば 失われたにしんそばを求めて
/佐々木朔「まちあるき(全国版)」(『羽根と根』通巻8号 2018.11.25)
この歌はなんというか、自分の主観というものをすごく大切にしている感じがいい。「うどん・そば」と書かれた幟を「にしんそば」と見間違えてしてしまって、やがてその認識が誤りであったということに気付くのだけど、たとえ誤認であったとしても、自分がそのように見えたそのとき、そこには確かにほんとうに「にしんそば」があった。そのイメージ、言うなればにしんそばのイデアみたいものはまだ語り手の中に確かな存在としてあって、それを求める気持ちもある。
「失われたにしんそばを求めて」という下句は『失われた時を求めて』を下敷きにしているのだけれど、それ自体遠大な小説であるし、単なる言葉遊びとして以上に、テーマ性そのものの親和性の高さを感じるというか、『失われた時を求めて』におけるマドレーヌの味みたいなものとして、にしんそばの味とか香りとかイメージとか、人生には往々にしてそういう遠大な追憶へと続く穴があるのかもしれない。
給料が少ないと思ったり多いと思ったりすることを部長と話す
/山本まとも「こんな感じです」(『短歌人』2018.12 月号)
「給料が少ないと思ったり多いと思ったりすること」にはたぶん二通りの解釈の仕方があって、実際に給料が手当とか成果報酬とかで月によって多かったり少なかったりするのか、それとも給料自体は同じ額だけど自分の主観としてそれが身に余ると感じたり逆に不満だと感じたりすることが往々にしてあるのか、そのどちらかだと思うのだけれど、やっぱり「思ったりする」というので、後者の主観的な、体感的な問題のほうなのかなという気がする。というか、後者のほうが断然面白い。一首がよりよく読める解釈を優先するというあれだ。あれも流行った。
というか、主観的な問題だとすると、こんなこと言われたって部長はどうしようもない。外形的には何も変化していないのに、この歌の語り手の中では同じ金額の給料の解釈が主観的に変わっているという話で、これはもう完全に気分の問題で、部長にできることは何もないに等しいと思う。思わず部長の気持ちになって「だから?」とか「で?」とか言ってしまいそうになる。良くない。まあでもこういう何も起こらないオチのかけらもない話を受けとめるだけの人徳?のある部長だからこそ、こういう話もできるという、わりとほのぼの系の歌とも思う。
この歌はジャンルとしては職場詠ということになると思うのだけれど、職場詠として、こんなに語り手がキャラ立ちするスタイルというのはなかなかないんじゃないかと思う。強いて言うなら植田まさしとかの四コマ漫画的なものに近いのかもしれない。一般的な職場詠というのはその置かれた環境としての職場のほうに固有の意味付けを付与したり、その固有の環境によって作中主体を定義する方向性がたぶんほとんどで、そういう意味でまともさんの部長シリーズ(こういうヤバい歌が他にも複数あるらしい。僕は「短歌人」の会員ではないので窺い知るのは難しい)はエポックメーキングなのではという気がする。
鳩サブレ型の磁石をロッカーに貼ってた時は楽しかったな
/山川藍『いらっしゃい』(角川文化振興財団2018.3.27)
今年はすごい歌集がたくさん出たらしい、のだけれどまだほとんどちゃんと読めていないのでよくわからない。この歌は歌集が出る前から誰かの引用か何かで知っていて、前からすごく好きだった歌のひとつだ。
楽しかった時の思い出があって、それはごく一瞬かもしれないしわりと長めのスパンかもしれなくて、これが「時」であって「頃」とかではないのでそれはわからないのだけれど、でもこれは回想の歌なので、ここで言われている「時」はあくまでも語り手の主観的な時間感覚の中にあるわけで、極端な話、実際に楽しかったのがごく一瞬だったとしても、それを思い出として回想するときにはその時間は永遠にもなりうるので、だからそのことはここでは問題じゃないのだと思う。
その楽しかった時の記憶として紐づいているイメージが「鳩サブレ型の磁石」というのがすごい。ディティール、質感、配置、全部がすごい。そして何よりその「磁石」というガシェットがその時の「楽しかった」ことの理由とか背景そのものに直接的には何ら寄与していなさそうなのがすごい。楽しかったのは基本的に別の要因があって、でも思いだすのは「鳩サブレ型の磁石」なのだ。それが何故なのかはたぶん本人もわからないのではないか。人間の内部にはそういう言語化未満の底なしの虚無空間みたいなものがあるような気がするときがある。
あふれやまないコーラな夜は雑な敬語の使い手である君にまかせた
/宇都宮敦『ピクニック』(現代短歌社2018.11.27)
雑な韻律、雑な喩、雑な態度、そして雑な敬語。すべてが雑としか言いようがないのにこの完璧な感じは何なのだろうと思う。天才か。
「君にまかせた」というのはなんというかポケモントレーナーとか野球の監督みたいなそういう感じの気分かなと思うので、要するにこの「あふれやまないコーラな夜」という状況への対処としては、「雑な敬語」というチョイスがベストで、またその「雑な敬語」というワザの使い手として「君」には全幅の信頼を置いている、という話かなとは思う。どういうことなんだ。
僕は飲み物としてのコーラをわりと好きなので、「あふれやまないコーラな夜」という状況はなんとなく佳きものかなという直観的な印象があるのだけれど、この歌ではどちらかというと良くない状況なのだろうと思う。というか、どんなものでもそれが「あふれやまない」状況というのは本質的に不穏だし、いくらコーラがおいしいからといっても、何事にも限度というものがある。そういうどうしようもない状況に対して「雑な敬語」をぶつける。ぶつけるとどうなるんだろうか。対消滅したりするんだろうか。でも「雑な敬語」で話し続けるという行為自体は抜本的な解決策というよりもその場しのぎの対症療法っぽい感じもある。よくわからない。
この歌も歌集ではなくいつかのガルマン歌会の詠草ではじめて読んだ歌で、そのときからずっと気になり続けている歌なのだけれど、歌集『ピクニック』は全体的に本当にヤバいので読んでない人は読んでほしい。まず大きさからしてヤバい。
ガス代を払いに行って帰ってくると玄関ポストにガス代がある
/水沼朔太郎「おでこの面積」(『歌集 ベランダでオセロ』2018.9.9)
この歌もヤバい。この世界のものすごく壮大な真実(システム)に自分だけが気づいてしまった感じ。
ガス代を送られてきた払い込み用紙で払うという行為、みたいな月イチぐらいでルーチンを回す定型的な生活行為みたいなものはたぶん他にもたくさんあって、ほとんどの人はそういう作業を特に意識しなくてもできる程度のルーチンに落としこんでいて、特に何かを感じることもなく毎月のガス代を払ったり、あるいは口座振替とかにしていて、そうなるともう所作もなくほぼ無意識下でガス代を払うという行為が完結するようになるので、毎月同じように同じことをして、同じ気持ちになったりしている、ということにも気付かなくなっているのだけれど、要領の悪い人にとってはガス代を払うというルーチンを生活の中に組み込むことはなかなか大変で、ほぼ毎月支払期限が過ぎてから督促状で納めるようになっていたり、べつに金銭的に窮乏しているわけでもないのにガスを何度も止められたりするということがある。ガスは比較的簡単に止まる。そしてこの語り手はその要領の悪さゆえに、このような世界のループもののような再帰的な構造にふと気がついてしまうのだ。
この認識のトリガーが引かれたのが、じつは玄関ポストに投函されていたガス代の払い込み用紙を「ガス代」と換喩的に認識した自分、に気づいた瞬間なのかなという気もする。この換喩が直観として行われたのは、ちょうど今しがたそれと同じ紙でガス代を払ってきたからなのだけれど、そのときにふと強烈な違和感が働いた、のだと思う。
プリキュアになるならわたしはキュアおでん 熱いハートのキュアおでんだよ
/柴田葵「ぺらぺらなおでん」(『稀風社の貢献』稀風社2018.11.25)
「キュアおでん」はなんかもう、魔球という感じがする。人間もおでんもともに外部から熱を与えられて、その内側に熱源を持つわけで、人間は実質おでんなのだということがわかる。ひとしきり笑ったあとで完全に納得してしまう。その説得力。
以上です。よいお年を。
文学フリマ25告知
文学フリマというイベントが明日あります。
稀風社の新刊はありません。当日は既刊の在庫とフリーペーパーを(たぶん)頒布します。よろしくお願いします。
いわゆる「新刊落ちました」というわけではなくて、今回は主に多忙によりはじめから刊行を見送った感じです。文学フリマは年に2回あるわけですが、それに合わせて年2冊新しい本を作る、というライフサイクルがだんだん苦しくなってきたというのが率直なところで、今後は年1~2冊ぐらいで本を作って出していきたいなという感じがあります。しかしながら、本を作るという営みは多分に身体知によっていて、一度そういうライフサイクルから外れてしまうと、なかなか「よし!やるぞ!」というスイッチが入らなくなりそうだなという気配があって、でもなるべく頑張っていきたいと思っていて、お前の頑張りなんてどうでもいいよと思われるでしょうけれど、そういうモチベーションでいまこの文章を書いています。ただこう、はじめて新刊を作ってない状態でイベントが近づいてきて、なんだか存外に寂しい気持ちがあります。まあでも、同人誌即売会では誰もが平等に「参加者」であるという美しい建前に阿って、これはたぶんコミケ発祥の建前なので文フリでは違うかもしれませんが、当日は堂々とブースに居たり居なかったりするつもりです。
そのほか、G-16の「She Loves The Router」さんの同タイトルの新刊に「夏のみぎり」という文章を寄稿しています。主に谷川由里子さんの短歌についての文章です。
「She Loves The Router」G - 16シー・ラブズ・ザ・ルータ11/23東京文フリ出ます。執筆者は、宇都宮敦、鈴木ちはね、武田穂佳、吉田奈津、堂園昌彦、谷川由里子です。宇都宮さんの巻頭30首「この星の夜」何度よみ返してもすばらしいです。私は準備していた1首評×7「感覚の逆襲」を書きました。ぜひ🎪 pic.twitter.com/8iaz7GD9NS
— 谷川由里子 (@YTanigawa1982) 2017年11月15日
「She Loves The Router」は詳しくは書けませんがすごくいい感じなので、買った方がいいと思います。
鳥についばまれないよう網をしてそのなかに魚が干してある (短歌の感想 その8)
鳥についばまれないよう網をしてそのなかに魚が干してある
/「名と叫び」三上春海 朝日新聞2016.1.5夕刊
特にむずかしいことも、あるいは何かすごくて高尚なものもここには詠まれていないような気がする。認識された光景をただ簡潔に、あくまで理知的に述べているだけのように思われる。
でも、何か述べるという行為、説明するという所作は、紐解いてみようとするとどうしてなかなか一筋縄にはいかない。イメージを言葉に変換する作業、というのは僕たち人類にとって発話の原体験そのものであるはずだが、いや、だからなのか、僕たちはそのことをなかなかうまく説明することができない。
この歌はひとつの光景をここに提示しているのだけれど、厳密に言えばそれ以前にひとつの判断と、さらにそれ以前にはその判断に到るまでの思考が織り込まれている。砕いて言えば、「網の中に魚が干してある」という光景に対して、なぜ網がかけられているのか、それは鳥についばまれないようにするためではないか、という認識→思考→判断(発見)の過程がこの歌には折りたたまれている。その上で、その過程が歌として詠まれるとき、その順序はその人の内部で解体再構成されて、結果的には「鳥についばまれないよう」という判断(発見)から詠われているのだ。思考の順序から説明の順序に組みなおされた、とでも言えばいいのろうか。とにかく、この歌のもとになる認識、ないしは想像がこの作者の中に到来してから、この歌が実際に詠まれるにあたっては、決して短くない滞留時間がその間にあったのではないかという印象を僕は抱く。だからか、この光景は「いま・ここ」のことではない、かといって明示された「あのとき・あの場所」でもない、漠然とした「いつか・どこか」の色彩を帯びて立ち現れてくる。
また、「鳥についばまれないよう網をしてそのなかに魚が干してある」という語りによって描かれている光景の中に「鳥」の姿はない。にもかかわらず、僕たちはそこに同時に、複眼視的に、そこにいる「鳥」の姿をもイメージしてしまう。「魚」を「ついば」む「鳥」、あるいは「魚」を「ついば」もうとするも「網」によってその企みを阻まれている「鳥」。そのとき僕たちの脳裏に立ちあがる「鳥」のイメージもまた、「いま・ここ」でもなければ「あのとき・あの場所」でもない時空にいる、いわば可能世界の鳥だ。
そこにいないはずの鳥、可能世界の鳥を在らしめるもの。それがここでは「網」だ。この一首の中にあって「網」は、世界線の分岐点になっている。そこに「網」のある世界線、ない世界線。そしてそれぞれの世界線の「網」の場所に、可能世界の鳥が飛来する。そしてこの一首は、単なる固着したイメージの語りをこえて、僕たちの中で多様なイメージを、多重写しで立ちあげる。
「いつか・どこか」、あるいは「いまではない・ここではない」何か。思うに口語短歌(と称されるもの・発話言語)が文語(と称されるもの・記述言語)を離れて見ようとしたもの、語ろうとしたことというのは、そういうものなのではないか、という気がする。明示されたひとつの時間、ひとつの場所、ひとつの固着したイメージを離れて、僕たちが語ろうとしているのは、明示されない時空の、ある一定の可能性を帯びた「何か」なのではないか。口語の、特に終止形という動詞の活用には、そういう「明示しない」意志、ないし要請が秘められているような感じがする。
突っ張り棒が突然落ちる 壁紙のくぼみに先を再びあてる (短歌の感想 その7)
突っ張り棒が突然落ちる 壁紙のくぼみに先を再びあてる
/山本まとも「デジャ毛」(「短歌研究」2014.9)
この一首はいわゆる「あるあるネタ」の歌だろうか。
たしかに一面においてはそうかもしれないと思う。日々の暮らしの中のさまざまな場面で無言の貢献を続けている突っ張り棒というのは、あるとき何の前触れや予兆もなく、往々にして僕たちの視界に入らないところで、いきなりバサッと派手な音を立てて、支えていた衣服やら箱やらと一緒に落下するものなのだ。そしてまた、僕たちはしぶしぶ重い腰を上げて、その突っ張り棒を持ち上げて、再び元の位置に突っ張らせようとするのである。そうした日々の暮らしの中では光を浴びずに忘れられていく澱のようで、それでいてよくありそうな出来事をあらためて提示してみせるというのは、「気づき」や「(再)発見」の面白さであり、あるいは「あるあるネタ」の面白さに通ずるものだろうと思う。
しかし、この一首は「あるある」の面白さには決して着地しない。なぜだろう。可笑しさが引いた後に、ぞっとするような感覚の中に取り残されるのだ。それは日常生活の中で何度となく繰り返される、特に意識されない僕たちの動作というものが切り取られることで、それはふいに日々暮らすということ、さらには生きるということの本質に行きあたってしまうからではないかと思う。僕たちは日々暮らし生きていく中で、無意識のうちにある現象に対して同じ動作や行動、言動を何度となく繰り返している。そうした無意識下の反復運動、再帰運動というのが、「生きる」ということそのものなのではないか。ふとそのことに思い至って、背筋をぞっと凍らせてしまうのである。
そのような効果がなぜ生じるかといえば、この一首の中で、いわゆる「気づき」や「発見」の面白さが、決して一首の主題の座に上りつめないように、演出や表現が巧妙に抑制されているからだ。
例えばこの「突っ張り棒」を元の位置に戻す際の主体の心情というのを(「うんざり」とか)この一首に入れたり、あるいはおかしみを提示するために「突っ張り棒」を擬人化するようなレトリックを行使してもいいかもしれない。そのような手を加えれば、この歌はより「あるあるネタ」的な面白さに近づくはずだ。
しかし、そういった演出や主体の内心といったものは、この一首ではむしろ抑制されていて、あくまで出来事の表層をなぞるような語りが徹底されている。このとき、「気づき」や「発見」というのはあくまで語りの材料ではあっても、決して主題をとることはない。そこにあるのはあくまでも発生した出来事の表層であり、その表層を冷たくなぞる主体の認識なのである。
この「抑制」というのが山本まともという作者を評する上でのひとつのキーワードで、かれの短歌を支えているのは、主体の感情や想像による物語りや詩情を能うる限り抑制し、限りなく純粋な認識のみを提示しようとする姿勢なのではないかと思う。主体の心情をほとんど押し出さない一方で、大喜利的な「気づき」や想像力の面白さで読ませようとするでもなく、ただ事実や出来事の表層に対して忠実であろうとするのである。山本まともという存在は、インターネットに活動の軸を置く歌人の中でも、そのアンチポエジーのストイックな徹底という点で、かなり特異な立ち位置を占めていると言っていいかもしれない。
黒と黄の警告ロープに区切られた領域の横を通って帰る
/山本まとも「プレパラート」(「東北大短歌」創刊号2014.11)
上に引用した一首においても、主体はあくまで認識に対して忠実で、この歌では特に想像力が強く抑制されている。
「黒と黄の警告ロープに区切られた領域」というのが具体的にどのような領域なのか、表層をなぞる以上に深く想像するということを主体は行わない。例えば新たに住宅が建てられる更地であるのかもしれないし、あるいは道路の陥没していて危険な箇所だったりするのかもしれない。もしくは立ち入り禁止の廃墟かもしれない。しかし、主体はそのような「領域」のディティールへの想像や掘り下げはしない。このことはそのまま主体にとっての認識の優先順位を反映していて、その「領域」についての興味関心というのは限りなく低いということの表れなのだろう。あくまでも関心事は帰宅してからのことであったり、あるいは別のことでしかなく、「領域」はただ視界の隅をかすめていく風景の一部でしかない。
しかしながら、それでも主体は「黒と黄」のいわゆるトラロープが「警告」の意図や意思を発しているということだけは認識しているのだ。認識された事実以上の想像が抑制されることで、ここではむしろ「警告」への認識が際立つことになる。
思えば僕たちは日々さまざまな場面で、詳細に踏み込むわけでもなく、あるいは内実を理解できないまま、ただ「警告」というメッセージだけを受け取ってしまう。よくわからないけど、ただ「警告」されているのだ。次から次へと新しい出来事が認識下に舞い込んで来る時代にあって、こうした不詳の「警告」というのは、日々の暮らしの中で深く掘り下げられることはなく、漠然と受け容れられて、そして出来事の波に洗い流されてしまう。この一首にはそのような、今を生きるということに対する批評的な視座が根底にあるような気がする。穿ち過ぎだろうか。
また、忘れてはならないのは、そういった「抑制」の方法論が、それ自体を目的としているのではなく、あくまで語りの道具であるということだ。物語ることを抑制することが語りの道具になるというのはいささか逆説的だが、しかし一方で人間が言葉を紡ぐ以上、あるいは紡がれたテキストを読むのが人間である以上、「抑制」の完璧な徹底というのは不可能で、どんなに出来事の表層をなぞることに徹しようとしても、必ずどこかに物語が滲み出てしまうのではないか。そして、その不徹底を欠点とするのではなく、逆に利用することによって、山本まとも作品は成り立っているのではないだろうか。どんなに抑制しようとしてもなお滲み出てくるほんの一滴の詩情を求めて、安易に作られうる詩情をかれは排そうとしているのかもしれない。
ヒッチハイクのコツの話を思い出し事務所の外の道を見ている
/山本まとも「デジャ毛」
ヒッチハイクによって現実社会を生活を逃れることは難しい。「事務所の外の道」は決して未知の世界には繋がっていない。それでもなお、救いへの希求がふいに現実の風景にダブってしまうことがある。それはほんのふとした一瞬で、その一瞬「事務所の外の道」の光景はきっと美しいものだったろうと思う。しかしほんの一瞬美しいエスケープルートに映ったその道は、すぐにもとの現実の殺風景な生活道路に戻って、そこを軽トラックか何かが通り過ぎて行ったのではないか。すべては僕の想像である。
明日2/8(日)21:00より、山本まともさんをゲストにお招きして、稀風社配信第17回をやります。テーマは「野球」。野球回のあるアニメは名作と言われています。よろしくお願いします。