父といて父はるかなり春の夜のテレビに映る無人飛行機 (短歌の感想 その1)

父といて父はるかなり春の夜のテレビに映る無人飛行機
寺山修司未発表歌集 月蝕書簡』寺山修司(田中未知編)より

 これから読んだ短歌の感想をちょくちょくブログに書いていきたい。


 いきなり上に引用した歌ですが、寺山修司晩年の未発表作品。「父」というモチーフは「故郷」や「母」などと同じくらいには寺山作品にありふれたモチーフだけれども、晩年の作ということも考えると「父」にも単なる対象として以上に複雑なニュアンスがこもってくるのかなという気がする。同じく『月蝕書簡』には

地の果てに燃ゆる竃をたずねつつ父ともなれぬわが冬の旅

というような歌も収録されているし、「父といて~」にも同じく「父」へと投影される部分があるのかもしれない。


 「父といて父はるかなり」というのは実体としての距離と心理的な距離とのギャップがあるということなんだろう。「父」がそこにいるはずなのに虚ろで遠い存在に感じられる瞬間、「父」という強固であるべき概念がぐらつくような一瞬というのは、(子)の側から見るとわりと普遍的な主題だし、ともすると寺山修司らしくないような感じもする。人が育っていく過程のどこかで、親というのが絶対的な存在から相対的な存在へと変わっていく、その過渡期の光景なのかもしれない。
 その実体があっても存在が虚ろな「父」に、「テレビに映る無人飛行機」が重ねられている。「テレビに映る」「無人」というのは二重の距離感で、そこに見えるのに触れないこと、人間が不在、あるいは枠外のどこか遠くに存在していること、というような感覚だろうか。また、この「テレビに映る無人飛行機」というモチーフ自体がどことなく70年代的で、いわゆる「うたのわかれ」以前との世相的な意味での違いが反映されているのかもしれない。
 ただ、ちょっとよくわからないのが、「春の夜の」という時候を限定する表現が全然歌の中で生きていないような気がするところだ。「春の夜の~」がかかるのはテレビ(の中の映像)だから、それによって無人飛行機のいる空間における時候が決定するわけではないし、逆にいつの季節のテレビであろうが、そこに映し出される無人飛行機の映像に違いが生じるわけでもない。だからこの繋ぎの部分だけ歌の中でぽっかり浮いてしまっていて、不思議な感じがする。何かこの部分に元ネタがあるのか、もしくはある種の時事ネタ的な要素としての必然性があったのか、知っている人がいたら教えてください。


 そういえば「実体としての距離と心理的な距離とのギャップ」といえば紀野恵の「不逢恋逢恋逢不逢恋~」というあれもそうで、「逢不逢恋(あふてあはぬこひ)」というのは字面通りに受け取るとやっぱりそういう、「実体としてそこにいるのに心理的な距離が遠い」ということだし、身も蓋もない話をすると、こういう普遍的な抒情をどういうふうに料理するかみたいなところに、短歌のすごい人のすごい部分があるんだろうというような気がする。


寺山修司未発表歌集 月蝕書簡

寺山修司未発表歌集 月蝕書簡

いつか誰かに話したことの焼き直し

 世の中には類友の法則とかいうのがあって、それはインターネットでも例外じゃないどころかインターネットではむしろ加速されるせいで、社会生活を営むのにに何らかの問題がある(自称)人とばかり知り合って交流を深めていってるブログ5年目ツイッター4年目の現状があるのだけど、そうするとだんだんと、いわゆる「コミュ障」の類型が、自分のそれも含めてわかってきたような気がする。


 もう少し具体的に言うと、「コミュニケーション能力」とかいう用語には2つのレイヤーがあって、それを混同してしまうと全般的な能力の低い人は社会生活を営めないスパイラルに陥ってしまうんじゃないかみたいなことだ。「全般的に能力の低い人」ってかなり酷い言い方な気がするけど、少なくとも専門家でもないのにときとうな病名とか障碍を当てはめてどうこう言うよりかはましなんじゃないかと思う。
 単純労働が駆逐され知的労働と感情労働だけが残されつつある現代社会の中にあって、「コミュニケーション能力」とかいうけったいな概念は人間が社会的に生存していくための必須の力とされているわけだけど、この「コミュニケーション能力」にはおそらく2つの側面があって、これがときに無自覚に、ときには意図的に混同されてるせいでいらぬ苦しみを抱いている人って多いのではないか。その2つの側面というのは、

① 情報を適切に伝達する能力

② 相手に好感を持たれる能力

のふたつで、これらは本来全く別の技能であるはずだ。
 おそらく定型発達の人はナチュラルに双方をうまいこと備えているせいで、このふたつの異なった能力のことを無自覚に混同して語ったり求めてたりしてしまうのだと思うのだけど、②を備えていない、原理的にほとんど備えることのできない人が②を求め続けて空回りして、結果的に①さえもうまくいかなくなってしまうみたいなことがよくあるのではないかと思う。②の影を求める過程で自分への失望を繰り返して①を遂行するために必要な最低限の自尊心みたいなもの(これはもっとうまい言い方がある気がする)を失くしてしまうみたいな、そういう負のスパイラルが全般的に能力の低い人界隈にわりと蔓延している気がする。
 異論はあると思うけど、僕の考えでは②は社会生活を営む上で必須の能力ではない。少なくとも①よりははるかに重要性は低いはずだ。むろん、①の能力も、界隈の人にとって獲得することが容易い能力では決してないのだけど、②よりはまだ訓練によってどうこうなる部類だと思う。我々は、生き残るために②を捨てて①を取りに行くべきなのだ。
 例えば①の中には「不文律を理解する」とか「ジェスチャーを読み取る」みたいな力も含まれているのだけど、別にわからないことは「今のそれ、わかりません」と言ってしまえばいいのだ。結果的にそれできちんと情報をやりとりできるなら、それでいい。それによって多少疎まれようとも知ったことではない。「②を捨てて①を取りに行く」というのはそういうことだ。コミュニケーションによって相手に好感をもたれることへの期待を放棄することによって、皮肉にもコミュニケーション自体は格段に楽になる。それはおそらく今まで②のほうに脳みその、ただでさえ限られているリソースの大半を割いてしまっていたからなのではないかと思う。


 べつに人間は、好かれなくても、嫌われようとも生きていける。たとえそれによって周囲に嫌われようとも、情報伝達の連関の中に加わることができさえすれば、社会的に生きていくことが可能で、社会的に生きていくことによってお金が得られるし、お金によって尊厳ある生を生きることも可能になると思う。もちろん②を欠いていることによって付きまとう問題、例えば友達ができないとかそういう人生の問題は温存されたままなのだけど、少なくとも読めない「空気」を読もうとしてずっと空回りするよりはだいぶましなんじゃないかと思う。言わば、「空気を読めない」から「空気を読まない」へのシフトだ。
 見えないものを見ようとしたり、できないことをやろうとしても、人間は幸せになれないんじゃないか。少なくともできもしないことに固執して終わる人生なんてあまりにも無駄すぎる。
 
 

抑圧の光景のこと

 最近これの編集作業をぼつぼつと進めていて、インターネットの素人(僕もだけれど)のひとの短歌を、今までにない量とペースで読んでいるのだけど、そういう作業をしていると、短歌って一体何なのかよくわからなくなってくる。いや、もともとわかってなんかいなかったのだけど、それに深く直面せざるを得なくなってしまったのだと思う。


 短歌って何だろう。最大公約数的なことを言えば、それはただの詩型であって、それ以上でも以下*1でもないだろう。僕も基本的にはこの意見に賛成で、5・7・5・7・7という韻律に、これがひとつの定められた詩型であるという以上か以下の何かを誰かが見出しているとすれば、それは間違いなく一種の幻想にすぎないのだと思う。
 にも関わらず、多くの人は何もないはずのところに、関連のないものどうしを勝手に頭で繋ぎ合わせて、余計な文脈や意図や価値を見出してしまいがちで、おそらく僕も例外ではないはずなのだ。また、その幻想の個々人の中での枠組みが、歌人の個性であったりもするんだろう。ただ、これが初心者の場合になると、自分の抱いている幻想を自覚できていないぶん、それが露骨に、コントロールされずに出てきてしまうのかもしれない。
 何人ものひとの詠んだ短歌に触れて、各人ともに同じ詩型にさまざまな幻想を抱いていることが見えてきて、それは当然面白いことでもあるのだけれど、じゃあ自分はどうなんだ、短歌という詩型に3年という長いとも短いとも言い難い時間をかけて、いったいどんな幻想を観てきたのだろうという問いがどうしてももたげてくる。


 はっきり言って、僕はこの問いを今までずっと、ありとあらゆる手を使って避けてきた。あえていろいろな人の歌風を摸倣してみたり、文語と口語のあいだを行ったり来たりしてみたり、とにかく自分の短歌に自分の個性のようなものが出てきてしまうのを(それが成功していたかは別にして)徹底的に避けてきた。叙情を自分の感情にすることを避けてきたし、逆に自分の感情でさえ無ければ何でもいいとすら思っていて、そしてそれは現時点でもそうだ。
 それはいわゆる<私>に関すること*2でもあるのだけれど、とにかく僕は、僕の短歌を「僕自身」の居ない、文字列のどこをめくっても表出してこないような世界にしたいと望んでいて、あるいは、短歌という詩型には、そういう世界を創作することが可能なのではないかという期待があって、それが今日まで僕をこの詩型に執着させているのだと思う。そういう意味では、たぶんこの期待こそが、僕にとっての裏返しの幻想なのだ。


 おそらくこの考えは多くの人の賛同を得ないと思うのだけど、短歌という詩型は、感情や個性を抑圧する装置として機能しうるのではないかと思う。抑圧された光景、没個性的に世界を切り取る窓や額縁のようなものとして、僕は短歌を捉えていることが多いと思う。
 どうして賛同を得られないのかというと、それはたぶん、多くの詠み手にとってこの詩型は、作者の感情や個性を「増幅」あるいは「変換」させる装置であると捉えられているように感じるからだ。特に口語短歌の領域において、この「増幅」への信仰が顕著であるように思う。ある感情やそれに類するものを、短歌という詩型に投げ込むと、それが「増幅」ないし「変換」される、そういうブラックボックスのような装置として、捉えられているのではないか。
 「変換」はともかくとして、「増幅」と「抑圧」はそれぞれ全く逆の概念であり、それらはまったく逆の働きをする装置と言っていい。だから僕はたぶん、特に「増幅」を期待している人とは全く逆の見方や感じ方を、短歌についてしているはずだ。そもそも僕は、短歌を感性のブラックボックスにはしたくない。


 個性を抑圧するのは様式であり文法だ。あるいはその先に様式美の世界のことを見ているのかもしれない。短歌はそもそも定型詩で、その中でことばは様式や文法によって有形無形の制約を受けている。しかしおそらく制約がことばを「増幅」させも「抑圧」しもするのだけれど、どちらへ作用させるにせよ、そこにあるのは明確な方法論だったり様式であってほしいと切に思う。
 

*1:たとえば定型から極端に逸脱して、そのことに価値や意義を見出しているような人もいるけれど、そういう場合は「以下」に類するんじゃないかと思う。

*2:前にhttp://kifusha.hatenablog.com/entry/2012/04/22/173022で詳しく述べました

定型詩と「説明的」であるということについて。

 このブログのサブタイトルが「抒情の方法論」であったことをふいに思い出したので、そういう話をしたいと思う。


 この前とある人の短歌についてツイッター上で少々言及をしたのだけれど、そこで何の前置きもなく「説明的」という言葉で言い表してしまったのを少し反省している。もう少し前の段階からきちんと伝えないと、言わんとしていることが伝わらないのではないかと思うし、実際、言われたその人は頭ごなしによくわからない言い方で切り捨てられたとしか感じていないと思う。だから「説明的」であるということはどういうことなのか、さらに言えば「説明的」であることの何がダメなのか、どうしてそれがそこまでひどく糾弾されるものなのか、そういうことをちゃんと言わないといけないし、自分の中でもちゃんと筋道を立てておきたい。


海を知らぬ少女の前に麦藁帽のわれは両手をひろげていたり


 説明を長々とするよりかは具体例を出したほうがいいと思う。これは寺山修司という有名な人の有名な歌だけれど、この歌の優れている点、というか寺山修司という歌人の特徴的な点、称賛されもして、同時に悪しざまにも言われる点というのはやはりこの、過剰なまでの物語性や、極端なほどの演技性だろう。「海って一体どのくらい広いの?」と尋ねる少女の前で、男の子(われ)はばっと大げさに両手を拡げて見せて、「このくらいさ!」なんて言うのだろう。例えばそういうキザで鮮烈なひとつのシーンが、読み手の中に立ち上がってくる。
 ともあれ、この歌の内容に関する解釈や鑑賞はひとまず隅に置いておいて、ここで注目してほしいのは、この歌の中には、端的な事実関係しか詠みこまれていないということだ。たとえば上に述べた「海って一体どのくらい広いの?」「このくらいさ!」のような科白などは詠みこまれていない。また、「両手をひろげていたり」という静止したひとつの状態を詠んではいるものの、ばっと手を拡げたとか、わざとらしくとか勿体ぶってだとか、動きや時間の流れの中から読み取れるような情報は一切省かれているのだ。この短歌はいわば一枚の静止画のようなもので、にも拘らずそこからは動的で抒情的なシーンが浮かびあがってくる。
 たとえば、上に僕が書いたシーンのイメージが先に詠み手の中にあって、それをいわば逆再生して短歌を詠もうとするとき、こうした言葉の選び方ができるかどうかというのが、「説明的」であるかそうでないかということにつながってくる。ここで、「海って一体どのくらい広いの?」「このくらいさ!」のような科白をそのまま定型の中に持ち込んでみたり、腕を「ばっ」と、「思いっきり」拡げたとか詠みこんだりするのは、はっきり言ってあまり巧いとは言えなくて、なぜならそうした言葉の選び方は非常に「説明的」だからだ。


 そろそろ本題に入ろう。「説明的」というのは、つまるところ31音の定型詩の中に、詠み手が表現したい情景や心情などをそのまますべて詰め込もうとしてしまうことなのだ。
 多くの初心者の人にとって、31音というのは非常に狭く感じられるだろうし(そしてそれは実際に狭い)、57577の定型というのは非常に窮屈で邪魔なものに感じられるのだろう。それはもちろん自分もそうだったからというのもあるれども、やはりまだ言葉の取捨選択をする技能が身についていないからなのだろうと感じる。また、詠み手自身の「読む」能力が拙いために、読み手(誰だって無意識に自分と同レベルの読み手を想定するものだろう)が、きちんと狭い定型の枠の中だけで自分の表現したいものを読み取れるかどうかが不安で、その結果ある種のサービス精神のようなものを発揮してしまうからという理由もあるかもしれない。ともあれ、私は初心者だとのたまう人の詠む短歌のほとんど全部が、びっくりするくらい「説明的」なのだ。


 「説明的」なことの何が悪いんだ、「説明的」であることの良さみたいなものだってあるんじゃないかと言われるかもしれないが、あえてそれは否定したい。なぜなら短歌と言うのは定型詩で、57577という定型は、非常に窮屈で狭苦しいものだからだ。
 31音と言うのはほんとうに短いし狭い。ブログだったらこんなにも長々とどうでもいいことを書き連ねることができるけれども、短歌はそうではない。音や拍という限りある資源を少しでも有効活用しないと、短歌と言う媒体で「表現」なんてできっこない。できたとしてもそれは薄っぺらでスカスカなものにしかなりえない。だから短歌の定型の中で、「言いたいこと」「伝えたいこと」の説明なんかに終始している場合ではないのだ。
 じゃあどうすればいいんだというと、定型と言う枠の外、いわば「余白」の部分に目を向けることが重要なのだと思う。この「余白」の広さはまさに無限大で、この余白を広く使うことができればできるほど、表現の幅も当然ぐんと広がるし、そこまできてようやく短歌は「表現」のための媒体たりうるのではないかとすら思う。上に引用した歌はまさにその「余白」をあざやかに使いこなしている好例だろう。定型の枠の中には静止画的な叙景だけを描いて、その「余白」に、背景的なさまざまな物語や抒情が複合的に浮かび上がるように設えられている。


 とはいえ、いきなりこんな高度なことを実践に移すことは難しいだろうと思う(僕もこんなのは無理だ)ので、もう少し実践的な方面に踏み込んだ話をして終わりにしたい。
 叙事詩と叙情詩、あるいは叙事と叙情という言葉があるけれども、多くの人が詩を書くとき、叙情(心情、思いについて述べ表わすこと)の方向ばかりを見てしまう。それをほんの少しでいいので、叙事(事実や事件を、ありのままに述べ記すこと)や叙景(景色を目に映ったとおりに述べ記すこと)のほうにも振り向けてほしい。最初は退屈に感じるかもしれないけれども、叙事詩と叙情詩は決して二項対立する類のものではないどころか、上に述べたように、叙事によって叙情をより強く深く鮮烈に表現することも可能なのだ。
 また、これは僕がなんとなく感じていることなのだけれど、叙事が叙情を帯びることは多々あるけれども、叙情が叙事を帯びる、ということはおそらくありえない。だから、叙情というのは実は、常に叙事の外側に拡がっている、気体のようなものなのではないかと思う。とすると、気体だけを狭い枠の中に詰め込んでみても、スカスカのぺらっぺらであるように感じられてしまうのはむしろ当然なのではないかと思う。やはり、気体を集めるための、宇宙空間に浮かぶ惑星のような物質的な核としての叙事の存在があってこそ、より密度の高い叙情が描けるのではないか。とにかく、枠の中に叙情をいっぱいに詰め込もうとする人が多いけれども、実は外側の「余白」こそが叙情の主たる領分なのだ。
 だから、それが「言いたいこと」「伝えたいこと」であればあるほど、定型の枠の中には書き込まない方がいいし、書き込まずになおかつそれを「余白」にうまくまとわせるためにはどうすればいいか、というような言葉やモチーフの取捨選択の方法を習得することが、「説明的」であることを脱するための具体的な第一歩なのではないかと思う。

誤配と可能性

 稀風社の今後をめぐるカミハルさんとのお話については、ここで何か書いたり答えたり伝えたりとか、そういうことは特にやらないつもりで、別の機会にスカイプ通話とかでお話合いができればそれでいいかなと思う。少なくとも、全世界というのはさすがに大げさであるにしても、全日本語圏に対して公開する類の応酬ではないだろうと思う。いや、別に僕がこういう判断をすることに対して客観的な正しさなんて必要なくて、単に僕が自分の意見とか感情とかをオープンな状態で誰かにぶつけたりするのがすごく苦手で、恥ずかしくて、最初にそれをやったのはどっちだという話だけど、そういうことはなるべくクローズドな場でやりたいし、そこでの内容を公開するのもできればしたくない。そうしたほうがいいとか、そうあるべきとかそういう話ではなくて、単に僕がそうするのが嫌なのだ。


 ただ、それとは別に、上に挙げたカミハルさんの記事の中で、あの記事を読んだ人に対して、ちょっと誤解を解いておきたいなと思う点がひとつあったので、今回はそれについて書く。
 誤解を解いておきたいなと思う点というのは、ぼくのスタンスというか、志向を「不可能性」という言葉でカミハルさんが言い表していることで、これはちょっと、いや全然違うように僕には思われるというか、これについては何かコメントしておかないと、黙認したことになってしまうわけで、なんというかそれは癪だなと思った。


 おそらくカミハルさんは、ふたつのそれぞれ違った次元における「不可能性」を混同したまま同じ用語で語ってしまっている。それぞれをなんと呼べばいいのかよくわからないけど、仮に「モチーフとしての不可能性」、「表現態度としての不可能性」というふうに言い表しておけばいいかと思う。あるいは「テキストに帰属する不可能性」と「作者に帰属する不可能性」とも言いうるかもしれない。
 「モチーフとしての不可能性」というのは、僕の言葉ではこれは「どうしようもなさ」みたいなふうに捉えられるものなのだけど、確かに僕はある種の不毛さ、諦念、「どうしようもなさ」を詠んだり書いたり歌ったりしたい人間で、そういう意味では僕は「不可能性」の人間だろうと思う。「可能性」に対置される「不可能性」という言葉がそういったモチーフを言い表すのに最適なのかどうかは置いておくにしても*1、少なくとも大筋では解釈として間違っていないように感じる。


 もうひとつの「表現態度としての不可能性」、これに関しては自分でこういう用語を製造しておいて言うのも何だけれど、そもそも語義矛盾があるように思う。表現行為と呼ばれうるものも含めて、実現可能なおよそすべての行為は「可能」の範疇に入るわけで、その「可能性」の範囲はすべて事後的に定義される。だから、これはあたりまえのことだけれど、実現した行為はすべて「可能」だったわけで、「不可能」な行為というものを未来方向に志向することもまた原理的に困難だ。だからそもそも「表現態度としての不可能性」というスタンスを取ることは不可能なのだ。僕だって短歌という枠組みを通じて可能性の範囲内のことを実現したいと思っているし、それ以外のことはできないだろう。
 実を言うとカミハルさんも、元記事の中で表現行為の態度としての「不可能性」のほうには全く言及していない。端的に言うと、カミハルさんは自らの表現行為の態度が「可能なものとその実現」というものであるとしていて、それに対して僕の関心が「不可避な現実」に向けられていると言っている。
 それらふたつの断定は個別には間違っていないのかもしれないけれど、今まで述べてきたように「表現行為の態度」と「モチーフへの関心」はそれぞれまったく別の次元の概念であって、本来それらは比較したり対比したりするのが不可能なものだ。表現における「誰に」あるいは「どうやって」と、「何を」というのは全く無関係なものでもないにせよ、何か同一の物差しに当てはめて比較できるものでないのは明らかだ。元記事がなまじ一見もっともらしい文体と構成であるぶん、こういうくだらないレトリックを弄するのはやめてほしいと思う。


 そのうえで、一応僕の思う僕自身の表現態度のようなものについても考えてみたい。なぜこのような誤解が生じたかについてもそれに少なからず関係がありそうな気がする。
 上でも述べたように、僕は基本的に「可能性」の範囲内のことを実現したいと思っているし、それ以外のことは「不可能」(あたりまえだ)であるとも感じている。それについてはカミハルさんと同じだと思うし、ほんとうにびっくりするくらいあたりまえの話なのでこのことはもう書かない。一方でカミハルさんが僕との間で何らかの「方向性の違い」を感じているとするのであれば、それは当然可能性の範囲内におけるベクトルの向きの違いなのだろう。それについては確かに少なからず心当たりがある。


 カミハルさんの方向性というか表現態度は、基本的には「届くべき人に届けたい」というスタンスであって、その状態のことを仮に「適配」と呼びたい。ある特定の言葉、一首の短歌、あるいは一冊の本という郵便が、予め想定された宛名どおりの相手にきちんと届いている状態だ。これは「言葉」という概念が我々の生存上の必要に応じて誕生して以来ずっと、普遍的に「言葉」に課され続けてきた役割であって、正しさでもあると思う。ものすごく単純化すると、Aさんに向かって後ろから「Aさん!」と呼びかけて、Aさんがこっちを振り向くという一連のプロセスが、言葉における「適配」の構図なのだろう。これはどんなに文章が長くなっても、どんな媒体を介在させようとも、宛先の人間がどんなに増えようとも、それが言葉である限り変わらない正しさの構図であるはずだ。


 しかし一方で僕は、上に述べたような「適配」の構図の、ある種の予定調和のような部分を好きではない。「適配」のプロセスを通じて人間同士の関係性が変化したりすることは無いだろうし、関係性を変えようという意思が無いというのは、世界を拡げる気が無いということでもあるように思われる。新たな出会いを拒絶しているし、衝撃を避けている。僕ははっきり言ってそんな韻文を読みたくない。他者を傷つけまいとして詩を紡ぐ意味がわからない。ほんとうにわからない。
 また、そういう優しさのようなものが、裏側では「そうでない人たち」をきわめて残酷なやり口で排除していることも知っている。


 それに対して僕が実現しようとしている状態のことを仮に「適配」に対する「誤配」としたい。「誤配」というのは文字通り宛先通りに言葉が届いていない状態だ。もちろんこれもまた「可能性」の範疇にあって、日常生活の中でもあたりまえのように言葉や情報の「誤配」は発生している*2。ただ、それが広く望まれていたかどうかの違いがあるに過ぎない。例えば8本の記事が掲載されている一冊の雑誌があったとして、読者にとって読みたいと思っていた記事が8本中2本であったとすれば、残りの6本の記事はその読者に対して「誤配」されたということになるだろう。もちろんその残り6本の記事も、それぞれ別の読者からは求められて存在しているとするならば、その別の読者の目に触れるとき、それは「適配」状態になる。このように「誤配」と「適配」の関係は固定的でなくめまぐるしく流動しうるものでもある。また、不特定多数に向けてばら撒かれる怪文書などのように、ほんの僅かな届くべき宛先へ「適配」させるべく、数撃ちゃ当たる式に膨大な数の「誤配」を起こしたりする例もある。
 要するに、僕は自分の短歌に触れた人のことを傷つけたい。見たくないものを突き付けたいし、知りたくなかったことを知らせたい。そのためにはモチーフに共感しない人達まで「誤配」される必要があるし、そのための方法はちゃんと考えてゆきたい。


 これはやや余談になるものの、「誤配」を引き起こすための有効な手段として、これまた独自の用語になってしまうのだけど、「混載」という手法があると思う。わかりやすいのは上に述べた雑誌の例だ。僕にとって稀風社というのはまず第一には楽しい遊びであったわけだけど、同時にそうした「誤配」を期待できるものにもなり得るかもしれないと思っていた。カミハルさんの短歌を読みたいはず人が、同時に僕の短歌にも触れるのであるとするならば、それは既に「誤配」で、そのとき世界は痛みとともに拡張されている。これは混載されているもの同士のベクトルが異なる方向を向いていればいるほど有効なはずだ。少なくとも理論上は。
 だから、悪い言葉でいえば僕はカミハルさんを利用しようとしていたとも言えるわけで、そのあたりの誹りは免れない気がする。しかし同時に、稀風社は解散するどころかもっと広がっていけばいいとすら思っているし、解散したとしてもそういうやり方はひとつの有効な手段として今後も見据えてゆきたいと思っている。



*1:ここで僕が留保をするのは、「どうしもうもなさ」の中には、「可能性」の範疇にあるもの、例えば「できてしまうこと」のようなタイプのものも含まれていて、この場合「できてしまう」の部分よりも「できてしまう」ことのほうが重要で、「可能かどうか」という軸は必ずしも抒情の本質を得てはいないのではないかという疑念が残るから。

*2:ツイッターとかの炎上なんて「誤配」の最たるものだろう。

iPhoneをなくしたひとの話

 22年も自分をやっていると、だいたい自分という人間が何をやるのかとか何をやらかすのかとかがだいたいわかってきて、正直アイフォーンをなくしたぐらいではあまりパニックになったりひどく落ち込んだりはしなかった。いつかそういうことをやるだろうと思っていたし、実際僕は22年の人生の間にいろんなものを落としたり失くしたり置き忘れたりしてきている。だからそういう歴史の延長線上にある出来事としてすんなりと「アイフォーンをなくした」という事実を受け入れることができたし、自分自身への失望がまたひとつ積み重なっただけだった。そういう予感があったというわけではないけど、事後的に「ああ、自分ならやりかねないな」というふうに納得できる範疇のこととして、頭の中ではわりとあっけなく処理されていった。


 こういうことは、仮に分かっていたからといって本質的な意味での対策は取りようがない。突き詰めていくと注意力の問題と言うか認識の問題と言うか、根本的には脳みその中の問題になってしまうと思うし、脳みそ自体に問題がある以上、それを同一の脳みそによって解決することは難しい。よく「これこれこういう意識を持つべきだった」みたいな反省の弁を聞いたりするけれど、「意識を持つ」ことを意識するというのは果たして可能なのか、そもそもそれは一体どういうことなのか、みたいなことをすごく思う。もちろんある程度はそういった認識の矯正も可能なんだろうけど、そういう無意識の領域の処理方法を強引に変えようとするのはかなりストレスフルなことで、多くの場合は割に合わないのではないかと思う。


 もちろん自覚を持つことで先回りして未然に食い止められている部分も、齢を重ねるごとに増えているのだと思うけれど、「未然に食い止めた」事故というのは当然可視化されないから、僕は年に数回のチョンボばかりを依然として強く認識することになる。小学生の頃なんかは週に2回は給食袋を持って行き忘れるか持ち帰り忘れるかしていたと思うし、体操服も忘れ、水着を忘れ、大切な紙をなくし、上靴を隠され、みたいなことが日常茶飯事だったような記憶があるし、それに比べたらかなり進歩しているはずなのだけど、そういう進歩にいったいどの程度の意味があるのかよくわからない。マイナスの幅を縮めたところで、マイナスであること自体は拭えていないし、拭いようがないんじゃないかという気がする。もちろんそのお蔭でなんとか社会生活を営めているのだけど、そのために無理がたたっている面はどうしてもあって、その割にべつに褒められるわけでもないし、むしろ叱責されるばかりだし、やっぱり努力を評価されないと僕も人間だしつらい。


 はっきり言って、僕がアイフォーンという常に携帯して持ち歩く類のものを、2年近くも紛失しなかっただけでむしろ奇跡で、というかそういうことにしておかないと身が持たない気がする。こんなことをいちいち気にしていたら比喩ではなく死んでしまう。死ぬにしたってせめてもっと重大なことに絶望して死にたい。


 あと、関係ない話としては、アイフォーンを紛失してからあきらめて買い替えるまでのおよそ3日半、開き直って自分だけ90年代の東京に暮らしてるつもりで生活してみたら、びっくりするくらい読書がはかどった。そりゃあ本も雑誌も売れたはずだと思った。結局のところ出版不況って要は可処分時間と可処分所得のシェア争いに負けたってだけの話なんだと思う。あと家事もはかどった。豊かさってなんなんだろうね。


 最後に、高円寺の西友のトイレでピンクのカバーのアイフォーン拾ったけど店にも警察にも届けなかったという人がもしいたら、今からでも遅くないから新幹線に轢かれろ。

ブログを書くまで寝ない実験 その2

 誰がなんと言おうとも、やっぱり詩と言うのは豊かさの産物なんだろうと僕は思っていて、かねがねそういうことを言い続けている。詩が豊かさの産物だと言うのは、まず第一に詩を作る側における現実としてあるのだろうけど、それ以上に、詩を享受する側にとってみても、詩というのは生存に切実に必要不可欠な栄養素などではなくて、必要なものがすべて満たされてはじめて受容されうるものなのだろうと思う。例えば恋とか青春とかそういうものが人を「詩人」にするみたいな話があるけれど、それは単に、「恋」とか「青春」みたいな概念自体が豊かさの産物であるということを意味しているだけだろう。


 まあでも、これに限ったことではないけれど、世にあふれる大体の発想とか考えは、すでに他の人達や昔の人たちによって言い尽くされている。だからそんな中であえて自分が文章を書く意味なんてないだろと僕は思ってしまうし、ブログだって続かない。「詩を作る側」における似たような話というかほとんど同じことを言っている話としては、わりと最近読んだ本*1の中で、石川不二子という歌人の文章が引用されていて、だからこれは孫引きになるわけだけど、曰く、

生活即歌、と誰が言おうと、歌はやはり余裕の産物である。生きることに追われていたら歌などできる筈はない。「けもの」は歌なんか作らない。生きるためだけに必死で生きている、そういう姿を純粋で美しい、と思うのもやはりよけいな思い込みなので、実際は陰惨というに近い。


引用元:『わが歌の秘密』(1979/村永大和編/不識書院)

という感じだ。石川不二子というひとの経歴はなかなかに異色で、詳細は知りたければググるなりなんなりしていただきたいのだけど、そりゃあこうも言いたくなるだろうなあという感じがする。この人のこの経歴に比べれば、僕なんかはまだよっぽど余裕のあるほうであるのに違いないと思う。


 また、石川不二子のこの文章があぶりだしているのは、短歌が余剰の産物に過ぎないということ以上に、「必死で生きている」というような物語を欲して、見出して、また紡いでいるのはいつだって余裕のある側の人間なんじゃないかという、ある種の倒錯を帯びた構図なのではないかというような気もする。黒人奴隷たちの労働歌であったところのブルースを発見して、そこに表現価値を見出して消費していったのは白人たちだった、とでも言うような、ある種の豊かさをめぐる不均衡が浮かび上がる。


 生活にいっぱいいっぱいで余裕がなくなると、かなり早い段階で切り捨てられるのが、「私」について慮ることなのではないかと思う。「私」というのは他者の他者性についてと言ってもいいかもしれないし、あるいはそのまま裏返して自己の唯一性についてとも言いうるだろう。簡単に言うと自分や他人がそれぞれ一回きりの生を生きていて、そしてみんな死ぬみたいな、そういうことについて考えることだ。朝の6時に家を出て夜の10時に帰ってきてそのまま倒れこむように寝るみたいな生活をしていると、そういうことについて考えることはたぶんできなくなる。


 詩の中でも、特に「私」と密接に関連づいてしまうことの多い短歌という詩形の場合は、「私」について考えるだけの余裕のがある人同士の間でしか流通しえないものである場合が多いのかもしれない。そういった詩の流通範囲というのは、社会の豊かさとか景気の良さとかにものすごくわかりやすく左右されるものだろうし、内外の豊かさに依存したその範囲を脱しようと思えば、詩は「私」を捨てなければならないはずだ。しかし、そうした「私」を捨てた詩というのが、詩であることを保ちうるのかどうか、僕にはうまくイメージできない。けれどもそうした豊かさとか脆弱な近代的自意識のようなものに依存した表現というのにはあまり価値の与えられない世の中にあって、おまえの「私」なんか邪魔なだけで興味ないんだよ、みたいなことを言われたときのための対策を、なんとか講じないといけない気がする。


 先週末に中野のタコシェに稀風社の歌集の委託販売を依頼しに行った(詳細)のだけど、やっぱり「正直歌集は全然売れないですよ」みたいなことを言われた*2。歌集が売れないことはよく知っているつもりだ。商業出版されているものでさえ、そのほとんど全てがそのへんの同人誌よりもはるかに少ない部数しか出ていない。届くべきところに届けばそれでいいと言うのかもしれないけど、何かを表現する人がそんなことを言ってしまっては、どうなんだろう。


 あたりまえだけれど絶望的なこととして、短歌を読むような人は短歌を好きなような人だけ、ということがあって、それは余裕云々とはまた別次元の問題なのだけど、インターネットや通販に言葉を載せれば言葉は空間の隔たりを越えてどこまでも届く的な物言いにはどこか白々しさを感じてしまう。空間や時間なんかよりも絶望的な隔たりは世の中にはもっといくらもある。

*1:この本自体はそんなに読む価値のあるものではなかった

*2:正直で好感が持てる