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抒情の方法論

鳥についばまれないよう網をしてそのなかに魚が干してある (短歌の感想 その8)

鳥についばまれないよう網をしてそのなかに魚が干してある 
/「名と叫び」三上春海 朝日新聞2016.1.5夕刊

 特にむずかしいことも、あるいは何かすごくて高尚なものもここには詠まれていないような気がする。認識された光景をただ簡潔に、あくまで理知的に述べているだけのように思われる。
 でも、何か述べるという行為、説明するという所作は、紐解いてみようとするとどうしてなかなか一筋縄にはいかない。イメージを言葉に変換する作業、というのは僕たち人類にとって発話の原体験そのものであるはずだが、いや、だからなのか、僕たちはそのことをなかなかうまく説明することができない。
 この歌はひとつの光景をここに提示しているのだけれど、厳密に言えばそれ以前にひとつの判断と、さらにそれ以前にはその判断に到るまでの思考が織り込まれている。砕いて言えば、「網の中に魚が干してある」という光景に対して、なぜ網がかけられているのか、それは鳥についばまれないようにするためではないか、という認識→思考→判断(発見)の過程がこの歌には折りたたまれている。その上で、その過程が歌として詠まれるとき、その順序はその人の内部で解体再構成されて、結果的には「鳥についばまれないよう」という判断(発見)から詠われているのだ。思考の順序から説明の順序に組みなおされた、とでも言えばいいのろうか。とにかく、この歌のもとになる認識、ないしは想像がこの作者の中に到来してから、この歌が実際に詠まれるにあたっては、決して短くない滞留時間がその間にあったのではないかという印象を僕は抱く。だからか、この光景は「いま・ここ」のことではない、かといって明示された「あのとき・あの場所」でもない、漠然とした「いつか・どこか」の色彩を帯びて立ち現れてくる。

 
 また、「鳥についばまれないよう網をしてそのなかに魚が干してある」という語りによって描かれている光景の中に「鳥」の姿はない。にもかかわらず、僕たちはそこに同時に、複眼視的に、そこにいる「鳥」の姿をもイメージしてしまう。「魚」を「ついば」む「鳥」、あるいは「魚」を「ついば」もうとするも「網」によってその企みを阻まれている「鳥」。そのとき僕たちの脳裏に立ちあがる「鳥」のイメージもまた、「いま・ここ」でもなければ「あのとき・あの場所」でもない時空にいる、いわば可能世界の鳥だ。
そこにいないはずの鳥、可能世界の鳥を在らしめるもの。それがここでは「網」だ。この一首の中にあって「網」は、世界線の分岐点になっている。そこに「網」のある世界線、ない世界線。そしてそれぞれの世界線の「網」の場所に、可能世界の鳥が飛来する。そしてこの一首は、単なる固着したイメージの語りをこえて、僕たちの中で多様なイメージを、多重写しで立ちあげる。


 「いつか・どこか」、あるいは「いまではない・ここではない」何か。思うに口語短歌(と称されるもの・発話言語)が文語(と称されるもの・記述言語)を離れて見ようとしたもの、語ろうとしたことというのは、そういうものなのではないか、という気がする。明示されたひとつの時間、ひとつの場所、ひとつの固着したイメージを離れて、僕たちが語ろうとしているのは、明示されない時空の、ある一定の可能性を帯びた「何か」なのではないか。口語の、特に終止形という動詞の活用には、そういう「明示しない」意志、ないし要請が秘められているような感じがする。