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抒情の方法論

2018年の名歌まとめ

2018年に読んだ短歌の中で個人的に名歌だと思ったものをちゃんとまとめておこうと思ったのでまとめます。順不同です。
名歌は数少ないですが、その名歌に出会うために短歌をやっているみたいな気持ちもある。


にしんそばと思った幟はうどん・そば 失われたにしんそばを求めて

/佐々木朔「まちあるき(全国版)」(『羽根と根』通巻8号 2018.11.25)

 この歌はなんというか、自分の主観というものをすごく大切にしている感じがいい。「うどん・そば」と書かれた幟を「にしんそば」と見間違えてしてしまって、やがてその認識が誤りであったということに気付くのだけど、たとえ誤認であったとしても、自分がそのように見えたそのとき、そこには確かにほんとうに「にしんそば」があった。そのイメージ、言うなればにしんそばのイデアみたいものはまだ語り手の中に確かな存在としてあって、それを求める気持ちもある。
 「失われたにしんそばを求めて」という下句は『失われた時を求めて』を下敷きにしているのだけれど、それ自体遠大な小説であるし、単なる言葉遊びとして以上に、テーマ性そのものの親和性の高さを感じるというか、『失われた時を求めて』におけるマドレーヌの味みたいなものとして、にしんそばの味とか香りとかイメージとか、人生には往々にしてそういう遠大な追憶へと続く穴があるのかもしれない。


給料が少ないと思ったり多いと思ったりすることを部長と話す

/山本まとも「こんな感じです」(『短歌人』2018.12 月号)

 「給料が少ないと思ったり多いと思ったりすること」にはたぶん二通りの解釈の仕方があって、実際に給料が手当とか成果報酬とかで月によって多かったり少なかったりするのか、それとも給料自体は同じ額だけど自分の主観としてそれが身に余ると感じたり逆に不満だと感じたりすることが往々にしてあるのか、そのどちらかだと思うのだけれど、やっぱり「思ったりする」というので、後者の主観的な、体感的な問題のほうなのかなという気がする。というか、後者のほうが断然面白い。一首がよりよく読める解釈を優先するというあれだ。あれも流行った。
 というか、主観的な問題だとすると、こんなこと言われたって部長はどうしようもない。外形的には何も変化していないのに、この歌の語り手の中では同じ金額の給料の解釈が主観的に変わっているという話で、これはもう完全に気分の問題で、部長にできることは何もないに等しいと思う。思わず部長の気持ちになって「だから?」とか「で?」とか言ってしまいそうになる。良くない。まあでもこういう何も起こらないオチのかけらもない話を受けとめるだけの人徳?のある部長だからこそ、こういう話もできるという、わりとほのぼの系の歌とも思う。
 この歌はジャンルとしては職場詠ということになると思うのだけれど、職場詠として、こんなに語り手がキャラ立ちするスタイルというのはなかなかないんじゃないかと思う。強いて言うなら植田まさしとかの四コマ漫画的なものに近いのかもしれない。一般的な職場詠というのはその置かれた環境としての職場のほうに固有の意味付けを付与したり、その固有の環境によって作中主体を定義する方向性がたぶんほとんどで、そういう意味でまともさんの部長シリーズ(こういうヤバい歌が他にも複数あるらしい。僕は「短歌人」の会員ではないので窺い知るのは難しい)はエポックメーキングなのではという気がする。

鳩サブレ型の磁石をロッカーに貼ってた時は楽しかったな

/山川藍『いらっしゃい』(角川文化振興財団2018.3.27)

 今年はすごい歌集がたくさん出たらしい、のだけれどまだほとんどちゃんと読めていないのでよくわからない。この歌は歌集が出る前から誰かの引用か何かで知っていて、前からすごく好きだった歌のひとつだ。
 楽しかった時の思い出があって、それはごく一瞬かもしれないしわりと長めのスパンかもしれなくて、これが「時」であって「頃」とかではないのでそれはわからないのだけれど、でもこれは回想の歌なので、ここで言われている「時」はあくまでも語り手の主観的な時間感覚の中にあるわけで、極端な話、実際に楽しかったのがごく一瞬だったとしても、それを思い出として回想するときにはその時間は永遠にもなりうるので、だからそのことはここでは問題じゃないのだと思う。
 その楽しかった時の記憶として紐づいているイメージが「鳩サブレ型の磁石」というのがすごい。ディティール、質感、配置、全部がすごい。そして何よりその「磁石」というガシェットがその時の「楽しかった」ことの理由とか背景そのものに直接的には何ら寄与していなさそうなのがすごい。楽しかったのは基本的に別の要因があって、でも思いだすのは「鳩サブレ型の磁石」なのだ。それが何故なのかはたぶん本人もわからないのではないか。人間の内部にはそういう言語化未満の底なしの虚無空間みたいなものがあるような気がするときがある。

あふれやまないコーラな夜は雑な敬語の使い手である君にまかせた

/宇都宮敦『ピクニック』(現代短歌社2018.11.27)

 雑な韻律、雑な喩、雑な態度、そして雑な敬語。すべてが雑としか言いようがないのにこの完璧な感じは何なのだろうと思う。天才か。
  「君にまかせた」というのはなんというかポケモントレーナーとか野球の監督みたいなそういう感じの気分かなと思うので、要するにこの「あふれやまないコーラな夜」という状況への対処としては、「雑な敬語」というチョイスがベストで、またその「雑な敬語」というワザの使い手として「君」には全幅の信頼を置いている、という話かなとは思う。どういうことなんだ。
 僕は飲み物としてのコーラをわりと好きなので、「あふれやまないコーラな夜」という状況はなんとなく佳きものかなという直観的な印象があるのだけれど、この歌ではどちらかというと良くない状況なのだろうと思う。というか、どんなものでもそれが「あふれやまない」状況というのは本質的に不穏だし、いくらコーラがおいしいからといっても、何事にも限度というものがある。そういうどうしようもない状況に対して「雑な敬語」をぶつける。ぶつけるとどうなるんだろうか。対消滅したりするんだろうか。でも「雑な敬語」で話し続けるという行為自体は抜本的な解決策というよりもその場しのぎの対症療法っぽい感じもある。よくわからない。
 この歌も歌集ではなくいつかのガルマン歌会の詠草ではじめて読んだ歌で、そのときからずっと気になり続けている歌なのだけれど、歌集『ピクニック』は全体的に本当にヤバいので読んでない人は読んでほしい。まず大きさからしてヤバい。

ガス代を払いに行って帰ってくると玄関ポストにガス代がある

/水沼朔太郎「おでこの面積」(『歌集 ベランダでオセロ』2018.9.9)

 この歌もヤバい。この世界のものすごく壮大な真実(システム)に自分だけが気づいてしまった感じ。
 ガス代を送られてきた払い込み用紙で払うという行為、みたいな月イチぐらいでルーチンを回す定型的な生活行為みたいなものはたぶん他にもたくさんあって、ほとんどの人はそういう作業を特に意識しなくてもできる程度のルーチンに落としこんでいて、特に何かを感じることもなく毎月のガス代を払ったり、あるいは口座振替とかにしていて、そうなるともう所作もなくほぼ無意識下でガス代を払うという行為が完結するようになるので、毎月同じように同じことをして、同じ気持ちになったりしている、ということにも気付かなくなっているのだけれど、要領の悪い人にとってはガス代を払うというルーチンを生活の中に組み込むことはなかなか大変で、ほぼ毎月支払期限が過ぎてから督促状で納めるようになっていたり、べつに金銭的に窮乏しているわけでもないのにガスを何度も止められたりするということがある。ガスは比較的簡単に止まる。そしてこの語り手はその要領の悪さゆえに、このような世界のループもののような再帰的な構造にふと気がついてしまうのだ。
 この認識のトリガーが引かれたのが、じつは玄関ポストに投函されていたガス代の払い込み用紙を「ガス代」と換喩的に認識した自分、に気づいた瞬間なのかなという気もする。この換喩が直観として行われたのは、ちょうど今しがたそれと同じ紙でガス代を払ってきたからなのだけれど、そのときにふと強烈な違和感が働いた、のだと思う。

プリキュアになるならわたしはキュアおでん 熱いハートのキュアおでんだよ

/柴田葵「ぺらぺらなおでん」(『稀風社の貢献』稀風社2018.11.25)

 「キュアおでん」はなんかもう、魔球という感じがする。人間もおでんもともに外部から熱を与えられて、その内側に熱源を持つわけで、人間は実質おでんなのだということがわかる。ひとしきり笑ったあとで完全に納得してしまう。その説得力。






 以上です。よいお年を。

文学フリマ25告知

文学フリマというイベントが明日あります。

c.bunfree.net

 稀風社の新刊はありません。当日は既刊の在庫とフリーペーパーを(たぶん)頒布します。よろしくお願いします。

 いわゆる「新刊落ちました」というわけではなくて、今回は主に多忙によりはじめから刊行を見送った感じです。文学フリマは年に2回あるわけですが、それに合わせて年2冊新しい本を作る、というライフサイクルがだんだん苦しくなってきたというのが率直なところで、今後は年1~2冊ぐらいで本を作って出していきたいなという感じがあります。しかしながら、本を作るという営みは多分に身体知によっていて、一度そういうライフサイクルから外れてしまうと、なかなか「よし!やるぞ!」というスイッチが入らなくなりそうだなという気配があって、でもなるべく頑張っていきたいと思っていて、お前の頑張りなんてどうでもいいよと思われるでしょうけれど、そういうモチベーションでいまこの文章を書いています。ただこう、はじめて新刊を作ってない状態でイベントが近づいてきて、なんだか存外に寂しい気持ちがあります。まあでも、同人誌即売会では誰もが平等に「参加者」であるという美しい建前に阿って、これはたぶんコミケ発祥の建前なので文フリでは違うかもしれませんが、当日は堂々とブースに居たり居なかったりするつもりです。

 そのほか、G-16の「She Loves The Router」さんの同タイトルの新刊に「夏のみぎり」という文章を寄稿しています。主に谷川由里子さんの短歌についての文章です。

c.bunfree.net

「She Loves The Router」は詳しくは書けませんがすごくいい感じなので、買った方がいいと思います。

鳥についばまれないよう網をしてそのなかに魚が干してある (短歌の感想 その8)

鳥についばまれないよう網をしてそのなかに魚が干してある 
/「名と叫び」三上春海 朝日新聞2016.1.5夕刊

 特にむずかしいことも、あるいは何かすごくて高尚なものもここには詠まれていないような気がする。認識された光景をただ簡潔に、あくまで理知的に述べているだけのように思われる。
 でも、何か述べるという行為、説明するという所作は、紐解いてみようとするとどうしてなかなか一筋縄にはいかない。イメージを言葉に変換する作業、というのは僕たち人類にとって発話の原体験そのものであるはずだが、いや、だからなのか、僕たちはそのことをなかなかうまく説明することができない。
 この歌はひとつの光景をここに提示しているのだけれど、厳密に言えばそれ以前にひとつの判断と、さらにそれ以前にはその判断に到るまでの思考が織り込まれている。砕いて言えば、「網の中に魚が干してある」という光景に対して、なぜ網がかけられているのか、それは鳥についばまれないようにするためではないか、という認識→思考→判断(発見)の過程がこの歌には折りたたまれている。その上で、その過程が歌として詠まれるとき、その順序はその人の内部で解体再構成されて、結果的には「鳥についばまれないよう」という判断(発見)から詠われているのだ。思考の順序から説明の順序に組みなおされた、とでも言えばいいのろうか。とにかく、この歌のもとになる認識、ないしは想像がこの作者の中に到来してから、この歌が実際に詠まれるにあたっては、決して短くない滞留時間がその間にあったのではないかという印象を僕は抱く。だからか、この光景は「いま・ここ」のことではない、かといって明示された「あのとき・あの場所」でもない、漠然とした「いつか・どこか」の色彩を帯びて立ち現れてくる。

 
 また、「鳥についばまれないよう網をしてそのなかに魚が干してある」という語りによって描かれている光景の中に「鳥」の姿はない。にもかかわらず、僕たちはそこに同時に、複眼視的に、そこにいる「鳥」の姿をもイメージしてしまう。「魚」を「ついば」む「鳥」、あるいは「魚」を「ついば」もうとするも「網」によってその企みを阻まれている「鳥」。そのとき僕たちの脳裏に立ちあがる「鳥」のイメージもまた、「いま・ここ」でもなければ「あのとき・あの場所」でもない時空にいる、いわば可能世界の鳥だ。
そこにいないはずの鳥、可能世界の鳥を在らしめるもの。それがここでは「網」だ。この一首の中にあって「網」は、世界線の分岐点になっている。そこに「網」のある世界線、ない世界線。そしてそれぞれの世界線の「網」の場所に、可能世界の鳥が飛来する。そしてこの一首は、単なる固着したイメージの語りをこえて、僕たちの中で多様なイメージを、多重写しで立ちあげる。


 「いつか・どこか」、あるいは「いまではない・ここではない」何か。思うに口語短歌(と称されるもの・発話言語)が文語(と称されるもの・記述言語)を離れて見ようとしたもの、語ろうとしたことというのは、そういうものなのではないか、という気がする。明示されたひとつの時間、ひとつの場所、ひとつの固着したイメージを離れて、僕たちが語ろうとしているのは、明示されない時空の、ある一定の可能性を帯びた「何か」なのではないか。口語の、特に終止形という動詞の活用には、そういう「明示しない」意志、ないし要請が秘められているような感じがする。

突っ張り棒が突然落ちる 壁紙のくぼみに先を再びあてる (短歌の感想 その7)

突っ張り棒が突然落ちる 壁紙のくぼみに先を再びあてる
 /山本まとも「デジャ毛」(「短歌研究」2014.9)

 この一首はいわゆる「あるあるネタ」の歌だろうか。
 たしかに一面においてはそうかもしれないと思う。日々の暮らしの中のさまざまな場面で無言の貢献を続けている突っ張り棒というのは、あるとき何の前触れや予兆もなく、往々にして僕たちの視界に入らないところで、いきなりバサッと派手な音を立てて、支えていた衣服やら箱やらと一緒に落下するものなのだ。そしてまた、僕たちはしぶしぶ重い腰を上げて、その突っ張り棒を持ち上げて、再び元の位置に突っ張らせようとするのである。そうした日々の暮らしの中では光を浴びずに忘れられていく澱のようで、それでいてよくありそうな出来事をあらためて提示してみせるというのは、「気づき」や「(再)発見」の面白さであり、あるいは「あるあるネタ」の面白さに通ずるものだろうと思う。
 しかし、この一首は「あるある」の面白さには決して着地しない。なぜだろう。可笑しさが引いた後に、ぞっとするような感覚の中に取り残されるのだ。それは日常生活の中で何度となく繰り返される、特に意識されない僕たちの動作というものが切り取られることで、それはふいに日々暮らすということ、さらには生きるということの本質に行きあたってしまうからではないかと思う。僕たちは日々暮らし生きていく中で、無意識のうちにある現象に対して同じ動作や行動、言動を何度となく繰り返している。そうした無意識下の反復運動、再帰運動というのが、「生きる」ということそのものなのではないか。ふとそのことに思い至って、背筋をぞっと凍らせてしまうのである。
 そのような効果がなぜ生じるかといえば、この一首の中で、いわゆる「気づき」や「発見」の面白さが、決して一首の主題の座に上りつめないように、演出や表現が巧妙に抑制されているからだ。
 例えばこの「突っ張り棒」を元の位置に戻す際の主体の心情というのを(「うんざり」とか)この一首に入れたり、あるいはおかしみを提示するために「突っ張り棒」を擬人化するようなレトリックを行使してもいいかもしれない。そのような手を加えれば、この歌はより「あるあるネタ」的な面白さに近づくはずだ。
 しかし、そういった演出や主体の内心といったものは、この一首ではむしろ抑制されていて、あくまで出来事の表層をなぞるような語りが徹底されている。このとき、「気づき」や「発見」というのはあくまで語りの材料ではあっても、決して主題をとることはない。そこにあるのはあくまでも発生した出来事の表層であり、その表層を冷たくなぞる主体の認識なのである。


 この「抑制」というのが山本まともという作者を評する上でのひとつのキーワードで、かれの短歌を支えているのは、主体の感情や想像による物語りや詩情を能うる限り抑制し、限りなく純粋な認識のみを提示しようとする姿勢なのではないかと思う。主体の心情をほとんど押し出さない一方で、大喜利的な「気づき」や想像力の面白さで読ませようとするでもなく、ただ事実や出来事の表層に対して忠実であろうとするのである。山本まともという存在は、インターネットに活動の軸を置く歌人の中でも、そのアンチポエジーのストイックな徹底という点で、かなり特異な立ち位置を占めていると言っていいかもしれない。

黒と黄の警告ロープに区切られた領域の横を通って帰る
 /山本まとも「プレパラート」(「東北大短歌」創刊号2014.11)

 上に引用した一首においても、主体はあくまで認識に対して忠実で、この歌では特に想像力が強く抑制されている。
 「黒と黄の警告ロープに区切られた領域」というのが具体的にどのような領域なのか、表層をなぞる以上に深く想像するということを主体は行わない。例えば新たに住宅が建てられる更地であるのかもしれないし、あるいは道路の陥没していて危険な箇所だったりするのかもしれない。もしくは立ち入り禁止の廃墟かもしれない。しかし、主体はそのような「領域」のディティールへの想像や掘り下げはしない。このことはそのまま主体にとっての認識の優先順位を反映していて、その「領域」についての興味関心というのは限りなく低いということの表れなのだろう。あくまでも関心事は帰宅してからのことであったり、あるいは別のことでしかなく、「領域」はただ視界の隅をかすめていく風景の一部でしかない。
 しかしながら、それでも主体は「黒と黄」のいわゆるトラロープが「警告」の意図や意思を発しているということだけは認識しているのだ。認識された事実以上の想像が抑制されることで、ここではむしろ「警告」への認識が際立つことになる。
 思えば僕たちは日々さまざまな場面で、詳細に踏み込むわけでもなく、あるいは内実を理解できないまま、ただ「警告」というメッセージだけを受け取ってしまう。よくわからないけど、ただ「警告」されているのだ。次から次へと新しい出来事が認識下に舞い込んで来る時代にあって、こうした不詳の「警告」というのは、日々の暮らしの中で深く掘り下げられることはなく、漠然と受け容れられて、そして出来事の波に洗い流されてしまう。この一首にはそのような、今を生きるということに対する批評的な視座が根底にあるような気がする。穿ち過ぎだろうか。


 また、忘れてはならないのは、そういった「抑制」の方法論が、それ自体を目的としているのではなく、あくまで語りの道具であるということだ。物語ることを抑制することが語りの道具になるというのはいささか逆説的だが、しかし一方で人間が言葉を紡ぐ以上、あるいは紡がれたテキストを読むのが人間である以上、「抑制」の完璧な徹底というのは不可能で、どんなに出来事の表層をなぞることに徹しようとしても、必ずどこかに物語が滲み出てしまうのではないか。そして、その不徹底を欠点とするのではなく、逆に利用することによって、山本まとも作品は成り立っているのではないだろうか。どんなに抑制しようとしてもなお滲み出てくるほんの一滴の詩情を求めて、安易に作られうる詩情をかれは排そうとしているのかもしれない。

ヒッチハイクのコツの話を思い出し事務所の外の道を見ている
 /山本まとも「デジャ毛」

 ヒッチハイクによって現実社会を生活を逃れることは難しい。「事務所の外の道」は決して未知の世界には繋がっていない。それでもなお、救いへの希求がふいに現実の風景にダブってしまうことがある。それはほんのふとした一瞬で、その一瞬「事務所の外の道」の光景はきっと美しいものだったろうと思う。しかしほんの一瞬美しいエスケープルートに映ったその道は、すぐにもとの現実の殺風景な生活道路に戻って、そこを軽トラックか何かが通り過ぎて行ったのではないか。すべては僕の想像である。




 明日2/8(日)21:00より、山本まともさんをゲストにお招きして、稀風社配信第17回をやります。テーマは「野球」。野球回のあるアニメは名作と言われています。よろしくお願いします。

しろくまカレーライス園 そこではみんながにこやかにカレーを食べてしろくまを見る (短歌の感想 その6)

しろくまカレーライス園 そこではみんながにこやかにカレーを食べてしろくまを見る
(溺愛「動物図鑑」神大短歌1号/2014.9)



 初句に提示されている「しろくまカレーライス園」というフレーズは独創的な固有名詞で、それに対してスペースを空けた二の句以降には「そこでは~」と「しろくまカレーライス園」についての説明になっている。これは言わば「問」と「答」の構文で、初句で提示された情報に対する読者の疑問が、二の句以降で明かされていくのである。あるいは大喜利的な作歌方法であると言えるかもしれない。
 「しろくまカレーライス園」という名詞に対して、「カレーを食べてしろくまを見る」というのはある程度想像がきく。読者にとっては予定調和的な安心感のある要素だ。また、「みんなが」というのも、まあ「園」なのだからそうなのだろうと思う。問題は「にこやかに」だ。この「にこやかに」という要素だけが、初句からインスピレーションを得た読者の予測の範疇を超えて、この空想上の「しろくまカレーライス園」に紋切りでない不思議な立体感と奥行きを与えているように思われる。表面的な情報に奥行きが与えられることではじめて、読者の中に「景」としての「しろくまカレーライス園」が、ほのぼのとした多幸感とともに立ち上がってくるのだ。
 この既知と未知の絶妙なバランス感覚が、この一首に単なる大喜利的なシュールな面白さに終わらない詩情をもたらしている。一見ただの奔放に見えて、その実とてもするどい言語感覚に掌られた一首であると思う。


 また、この一首の韻律に着目すると、まず初句が十二音、二の句が八音、そして三の句以降が五七七で、上の句に盛大な破調を内包している。特に初句の十二音というのが強烈で、ここまでくるともはや五音の枠に収めて読み下すことは不可能で、「字余りによって性急な印象を与える」といった技法では説明できるものではない。むしろ五音の枠をはみ出て溢れだすことで、「しろくま/かれー/らいすえん」という四・三・五の短歌定型とはまた別個の韻律が意識される印象がある。二の句の「そこではみんなが」は格助詞の「が」が韻律の上では余計で、一首をぎこちなくしているようにも見えるが、ここではおそらく韻律のスムーズさよりも、口語としての自然さや素直さが表現価値として優先されたのだろう。
 しかし、上に述べたような分析はこの一首全体の中での破調の意義や効能を説明するものではなく、あくまで局所的応急的な読みでしかない。一首全体に視野を広げると、むしろこの初句二の句の破調は、三の句に向けて徐々に収束して、三の句以降に定型へと復帰していくことを引き立たせて、さらに言えばその落差によって三の句の「にこやかに」を強調する効果を持っているのではないか。歌の内容だけでなく、韻律の上でも、やはりこの「にこやかに」というのがこの一首の核ではないかと思う。そう言った意味で、この一首の中で韻律と抒情というのは互いに連係しあっている。決して無意味な逸脱ではないし、また同時に決して単なるシュールでもないのである。




 21日(日)21時から溺愛さんをゲストにお呼びして稀風社配信をやる予定です。よろしくお願いします。

石井僚一「父親のような雨に打たれて」を読む

短歌研究 2014年 09月号 [雑誌]

短歌研究 2014年 09月号 [雑誌]

1.石井僚一さんについて

 石井さんとはこの前の九月の下旬にはじめてお会いした。それ以前にもUSTREAMでの歌会配信やtwitter等、インターネット上での関わりがあり、なんだかエキセントリックな人物だなという印象を持っていたのだけれど、実際会ってみるとなかなかハンサムな方で、知能が高く非常に頭の回転の速い好人物であったように思う。
 そうした彼の知性は彼の短歌研究新人賞受賞作であるところの「父親のような雨に打たれて」にも如実に生かされていて、「父」への「挽歌」であるという内容に対する先入観や外部文脈を排して読めば、読まれそして語られるためのクレバーな工夫が随所で機能していることがわかる。短歌の「連作」という媒体を、個別のテクストを混載した乗り物ではなく一個の自立し流通する作品に仕立てるというところの方法論に、彼がこの一連において示したかった問題意識というものがあったのではないかという印象を僕は抱いている。
 しかしながらこの「父親のような雨に打たれて」は、発表以来その「連作」をめぐる方法論ではなく、彼が作中において実父と実祖父の関係をモデルとして主体を仮構し、それによって「父の死」という物語を演出したことについて、その是非を含めて大きな注目が寄せられている状況である。こうした現状はおそらく石井さんの当初の意図とは大きく外れた状況なのだろうと思うが、そういった読みをされることを製作の段階で想定して配慮できなかったという点で、この「父親のような雨に打たれて」は、言わば「失敗作」とでも評すべきものなのだろう。石井さんの想定以上に短歌という詩型は読者の共感を強く喚起するものであるし、またさらに強い共感の磁場を持つ「挽歌」という形式をとったことも、彼自身の問題意識を提示する上では大失策であった。*1
 とはいえ、この石井僚一という歌人は、この「父親のような雨に打たれて」の一連によって世に送り出されたのである。何かにつけてこの「失敗作/受賞作」に紐付けて語られてしまうであろうことには同情できる部分もあるが、あるいは彼にとってこの作品は、背負うべき十字架になっていくのかもしれない。彼自身に知性と才能があることは間違いないので、なんとか上手い背負い方を見つけていってほしいと思う。



2.虚構を詠むということ

 石井さんに限った話ではないが、短歌において〈私〉の存在を打ち消そうとしてみたり、作中の〈私〉を仮構することで歌の内容を真実性から引き離したいという意思の根っこには、多くの場合作者の自己否定感が横たわっているように思う。等身大の〈私〉に表現価値を見いだせないからこそ、それを打ち消したり、ありうべき〈私〉を仮託した他者に成り変ってみたりするのではないか。それ自体は批判されるべきものではなく、人間が成熟する過程に負うある種普遍的な苦しみや痛みの表出なのだろう。
 「父親の~」の中で石井さんは、「死の間際の祖父をみとる父の姿と、自分自身の父への思いを重ねた」(2014/7/10道新朝刊)のだそうだが、「思いを重ねた」の解釈が難しいが、おそらく「父の死を看取る自分」、あるいは「もしも実父が死んだら自分はどのような内心の変遷を辿るだろうか」という仮構が彼自身の中で組み上がっていったのだろう。「〈私〉→(父→祖父)」というような彼の主観からの認識に忠実な形式での描写をとらなかったのは、やはり彼自身の中に〈私〉の「父への思い」という内心の情を率直に語れないある種の屈託や自意識があって、それが忌避させてしまったものであるかもしれない。
 なんにせよ、その仮構は〈私〉の内側で組み上がって拡張されていった、言わば仮想された〈私´〉とでも定義すべきものである。〈石井僚一〉では彼が語れないものを、〈石井僚一´〉に仮託して語らしめたというのがこの、「父親の~」の外部構造であると言える。
 短歌に限った話ではなく、作中主体がフィクショナルな存在であったとしても、その主体が作者の人格から全く逃れた存在であると言える例はそれほど多くない。むしろ、それが虚構であるからこそ、作者の理想であったり願望であったり、あるいは反駁の対象だったりといった構成要素を如実に反映していると考えるべきだろう。だから、主体や設定が虚構であったとしても、語りの内容までも作者に紐付かない虚構であると一緒くたに断じて「騙された!」と言ってしまうのはいささか安易である。
 ただ、短歌研究2014年10月号に掲載された「虚構の議論へ」において加藤治郎氏が「虚構の動機がわからない」と疑問を呈していたのは全くもっともで、この虚構は石井さんが、新たな方法論の提示や前衛短歌の流れを引いた問題提起を目的として積極的に行ったものではなく、まして読者や選考委員を騙そうという悪意があったわけでもない。「虚構性の可能性を追求する作者」という短歌2014年11月号誌中における黒瀬珂瀾氏の評価も、今の石井さんについては過大評価であると言わざるを得ない。あれは彼の自意識の屈託が消極的に選ばせた手法でなのである。もしかしたら自覚的ですらない、手癖のようなものであったかもしれない。*2



3.「老人」と「父/父親」と「あなた」

 「父親の~」の中で最も特徴的で、かつ効果的であったろうと思われるレトリックが、作中主体が父との相克を乗り越えていく過程で父親の人称が「老人」から「父/父親」を経て「あなた」まで変化していくということで、さすがに最後の「あなた」は大袈裟すぎるのではないかという気がするが、これを作者曰く「慌てて練り上げた」(「虚構の議論へ応えて」短歌研究2014年11月号)と言うのだから本当ならば恐れ入る。

「スピードは守れ」と吐きし老人がハンドルをむずと握るベッドで
己が青春に造りし道路を守らんと徘徊老人車に開(はだ)かり
父危篤の報受けし宵缶ビール一本分の速度違反を
遺影にてはじめて父と目があったような気がする ここで初めて
傘を盗まれても性善説信ず 父親のような雨に打たれて 
ネクタイは締めるものではなく解くものだと言いし父の横顔
助手席の永遠の行き場所とする法定速度遵守のあなたの

 多いのですべてを引用したわけではないが、「父の死」という事柄をきっかけとして、父との相克を乗り越えていく作中主体が描かれている。特に作中主体が相克の深い「父」の存在を受容する瞬間が、「傘を盗まれても~」の表題歌になっており、三十首一連で読ませるとても計算された巧みな構成だ。また、「父危篤~」の歌ではじめて「老人」が作中主体の父であるということが明かされるという序盤の構成も、読者を一気に物語へと引き込んでいくような効果を持っている。やはり「謎が明かされる」過程というのは読者にとって愉しいものだ。
 これらの仕掛けはどれも言ってみれば散文で物語る際の技法であって、やはり石井さんの本来の問題意識の主眼が、「連作で物語る」こと、あるいは「散文の理論で短歌は可能か?」という問いにあったのだという僕の確信はこのあたりにある。
 けれどもこうした仕掛けは、作中主体の年齢を作者である石井さんの年齢(25歳)であるという先入観のもとで読んでしまうと、うまく機能しなくなってしまうという問題がある。実際、僕がtwitter等で見聞きする限りでも、この「老人」が「父親」であるとは読めなかったという声は少なからずあった。

祈るしわくちゃの手に囁くように「いただきます」と「ごちそうさま」と

 という歌があるので、冒頭一首目の「「スピードは~」の「老人」が主体による過剰な形容であるとは読み取れず、やはり実際に手がしわくちゃになるほどに年老いた老人がいるのだということになる。おまけに「徘徊」までしているのである。
 また、それでは作中主体と父親は50歳近く年齢差のある親子ということでいいじゃないか、という解釈もできそうだが、その方向性も「ネクタイは~」の一首の存在が阻んでしまう。この歌に出てくる「父」は中~壮年期の、道路建設か何かに従事していた頃のもので、「ネクタイは締めるものではなく解くもの」というのは、「父」の意味深な生きざまであるともとれるし、あるいは高度経済成長期のブルーカラー労働者に普遍的な「ネクタイ」観であるのかもしれない。なんにせよ、その姿を記憶にとどめている主体が、20代の若者であるというのにはどうしても無理が生じてしまう。
 しかし、それよりも僕が問題にしたいのは、末尾の歌の「助手席を永遠の生き場所とする」である。水筒が振り回されるほどの深い相克の後に作中主体が辿りついた結論が、こんなものでいいのか。選考の中で穂村弘氏が「僕は永遠にあなたの子供ですよということですよね」と述べているが、そんなものははっきり言って「お母さんありがとう」系HIPHOPと同レベルだろう。結局のところ主体は父の存在を乗り越えることができず、父の死後もなお、「永遠に」服従していくというのである。これはこの作品一連の作中主体〈石井僚一´〉の問題でもあり、当然その生みの親でもある〈石井僚一〉の問題でもある。「虚構の議論へ応えて」の中で石井さんが「僕はその果てで父の死は想像しえないことを学んだ」と述べているのは、つまるところそうした仮想上での相克の限界なのではないかと僕は思う。



4.「法令順守」と「性善説」をめぐって

 「父親の~」を一読して僕にとって最も気になったことは、この作中に出てくる親子が、異常言って差し支えないほど、道路交通法という法規範に強く執着していることである。特に「スピードを守る」ということについてのこだわりは、単なる善良の領域を逸脱して、幼児的な盲執であるとさえ思える。

「スピードは守れ」と吐きし老人がハンドルむずと握るベッドで
己が青春に造りし道路を守らんと徘徊老人車に開(はだ)かり
父危篤の報を受けし宵缶ビール一本分の速度違反を
助手席を永遠の生き場所とする法令速度遵守のあなたの

 おそらくこの作中主体は、父の生き方を肯定し受容するよすがとして、この道路交通法遵守への強い執着に美点を見出しているのだと思われる。そして本人もまた、父危篤の報を受けて、急いで自動車を走らせて駆けつけた際に速度違反をしてしまったことを気にしているようで、こうした執着点の一致に逃れ難い血の繋がりというものを感じているのかもしれない。*3
 しかし、それは本当に愛すべき美点なのだろうか。二人の関係の全くの部外者である僕は、強く疑わざるをえない。スピード違反をしたほうがいいというのではなくて、この父親というのは、些細なことに異様なまでの執着を抱いていて、さらにたちの悪いことには、そのこだわりを他者に対して押しつけてしまう人物なのだ。呆けてしまって徘徊していてもなお、スピード違反と思しき自動車を見るや、それに立ちはだかってしまうほどなのだから、周囲もほとほと迷惑していたに違いないと思う*4。そしてこれは僕の想像を含んでいるが、作中主体はそういった父の異常さに対して反抗していたのではないか。なのにそこを、父が死ぬやいなやあっさりと呑み込んで受容してしまうというのは、僕にはどうも納得がいかない。
 さらに釈然としないのが、この父親の「法令速度遵守」への執着が、「性善説」に結びつけられていることである。

傘を盗まれても性善説信ず 父親のような雨に打たれて

 この歌における「性善説」は、おそらく「父親」の生きざまに紐付けられているのだが、上に述べたような父親像というのは、明らかに「性善説」とは逆の信条を持った人物なのではないか。「法令順守」と「性善説」はイコールで結ばれないどころか、真逆の概念でさえあるように思われる。そもそもこの父親は、他者の善性を信じていないからこそ、自分は頑なに法規範にこだわり、他者に対しても同じことを求めているというふうに解釈せざるを得ず、これは明らかに「性悪説」的な生き方なのである。
 また、「法令順守」を無批判に「善」であると結びつけてしまう作中主体にも思慮の浅さを感じざるを得ない。法令を守っているから善だ、あるいは法令に違反するから悪だ、という世界観は、世界に対する多面的な視座を欠いていて、大の大人のものとは思えない極めて幼稚なものだ。作中主体〈石井僚一´〉は読み取る限りではおそらく50歳前後の人物であり、これほど幼稚な世界認識を持った50歳代の男性というのが、本当に実在しなくて良かったと僕は心から思う。*5



5.失敗作と新人賞

 上に述べたような「父親の~」をめぐるいくつかの矛盾点は、「父と息子の相克」という主題の根幹に及ぶものであって、この作品が「虚構」という形式をとったことに対する是非以前に、そもそも「虚構」としてあまりにも詰めの甘い部分が目立つというように結論づけざるをえない。真実であるという担保のないフィクションにこそ強く求められるはずのリアリティが、いくつかの点で致命的に欠けている。一方で、この作品を作者の実生活に基づいたノンフィクションであると捉えると、なおさらこの作者=〈私〉には評価できない致命的な思慮の浅さが見えてしまうから、どのみちこの作品は本来評価に値するものではない。
 僕はこの作品を誌上で一読したときに、なんとなく不自然で嘘が混じっていると感じたし、むしろどうか虚構であってくれとさえ思った。肉親の死に対してこんなに理解しがたい内心の動きを示すような人には短歌をやっていてほしくない。だから内幕を聞いて正直ほっとしたところが大きいのである。
 では一体なぜ、この作品が不幸にも受賞作になってしまったのか。それはやはり、選考過程のオープンにされている部分を見る限りでは、「挽歌」だったからだと言わざるを得ないだろう。「挽歌」というだけで選考委員諸氏の共感バロメータの針が振り切れてしまい、適切な読解と正しい判断ができなくなってしまったのだろう。そう言う意味で、「挽歌」+「虚構」+「新人賞」というのはまさに混ぜるな危険の組み合わせで、これを偶然の差配で、一定以上の完成度で作り上げてしまった石井さんという人物は、何か持っているのかもしれない。
 僕は以前石井さんに「父親の~」の感想を問われた時に、「心に残った歌は何も無かった」というようなことを失礼ながら言ってしまって、石井さんはナイスガイだから笑いながら「そうですよね~」と返してくれたのだが、実は一首だけいいなと思った歌がある。

コンビニの自動ドアにも気づかれず光として入りたくもなる

 「光」に仮託された静謐な抒情があり、それと同時にその静謐を許さない「コンビニ」という常に音と光を放ち続ける消費空間がある。一連の中でこの一首だけはなぜか、〈私〉を仮構するのではなく〈私〉を打ち消す方向に強いベクトルを持った歌で、〈私〉の存在感を消したいという強い希求が、ただコンビニに入るというだけの行為でもそれを「光」に託させようとしてしまう。自動ドアが自分を察知して開く瞬間というのは、否応なく自分が自分としてここにいるということを認識させられる瞬間なのだ。また、「ひかりとしては/いりたくもなる」という下の句の句跨ぎが印象的で、屈折した心情、あるいはコンビニのガラス窓に屈折する光を思わせる。
 そうした〈私〉を打ち消したいという希求はネガティブな自己存在への嫌悪感に基づいたものであり、同時にか細いSOSの声でもある。都市的な消費空間の光景に、通奏低音として流れ続けているかすかなSOSである。
 こういう歌が詠めるのだから、彼はたぶんうまくやっていくだろうと思う。作品に対してはともかく、決して作者に対して分不相応な賞が与えられたわけではないはずだ。

*1:この「父親の~」という作品は、あるいは読む人の共感能力の高低を測るリトマス紙のようなものであるかもしれない。もしかすると、誰かの肉親の死に際しての心境を綴った作品に「失敗作だ」なんて、よほど共感能力が低い人でなければ考えもしないのかもしれない。

*2:石井さん自身が「父の死」を騙ることを重大なことだと認識していなかったから、「受賞のことば」等の場で明かされなかったり、あるいは実父の存命を隠蔽するようなこともなされなかったのだろう。

*3:しかし、無粋なツッコミが許されるのならば、速度違反よりも飲酒運転のほうを気にしてほしい気もする。

*4:これも無粋なツッコミであるが、徘徊ボケ老人がいきなり立ちはだかってきたせいで不運にも人殺しになってしまった当該ドライバーには深い同情を禁じえない。

*5:しかし、この50代男性に新人賞を授与するつもりだった方々がいるらしい。

終わらせてしまわぬように知っている海の名前をひたすら挙げる (短歌の感想 その5)

久しぶりの更新ですが、5月の文フリの収穫本から一首。
今更感がすごいですが文フリお疲れ様でした。お蔭様で『海岸幼稚園』なかなか売れました。お越しくださった皆様ありがとうございました。

終わらせてしまわぬように知っている海の名前をひたすら挙げる
佐々木朔「往信」(『羽根と根 創刊号』(2014/羽根と根)所収)より

同人誌『羽根と根』より一首。


 「終わらせてしまわぬように」というのは何かこう、たとえば一方的に思いを寄せる人との会話だったり、とにかくこの瞬間、この関係性が一秒でも長く続いてほしいというような願いがあるのだろう。しかし、そうした思いとは裏腹に、作中主体の発話は視野狭窄ゆえに一方的に空回りして独り相撲になって、とうとう会話は袋小路に陥ってしまった。
 どういう経緯かはわからないが(たぶん作中主体もどうしてこうなったんだ……という気持ちだろう)、作中主体が話し相手に対して一方的に自らの知っている海の名前をひたすら列挙するということになってしまう。一般に自らの知識を一方的にひけらかすという行為は、会話の中で歓迎されない。その歓迎されない空気を作中主体もまた感じ取っているからこそ、彼は既にはっきりとした終わりの予感の中にいる。そして、海の名前が出てこなくなったら最後、この関係性は終わってしまうのだ。しかし彼にできることは、ひたすら己の知識の中に潜り、海の名前を拾い集めることしかもはやできない。ベーリング海アゾフ海、紅海、カリブ海……
 この歌はそうした終焉と敗北を宿命づけられた闘いの構図であり、またある種の不器用な人々にとっての青春のほろ苦い光景なのだろう。随分と深読みを試みてしまった気がするが、それは僕自信にとっても非常に身に覚えのある感覚がこの一首から呼び起こされたからだ。


 また、「知っている海の名前をひたすら挙げる」のような繰り返しの発話や行為というのは、それ自体が原初的な祈りや呪術に近いものだ。何かひとつの呪文や題目を繰り返したり、あるいはお百度参りなどのように同じ行為をひたすら反復するようなとき、それはある種のトランス状態をもたらし、発話や行為はそれ自体の意味を剥ぎ取られ、祈りとしての儀式性や呪術性を帯びるのかもしれない。上に引用した歌においても、作中主体は「知っている海の名前をひたすら挙げる」ことにより、よりいっそう視野を狭め自分の中の深みに陥り、皮肉なことに会話の相手の存在はどんどん遠ざかってしまうような印象を受ける。


 同じ作者の歌にはこのようなものもある。

朗読をかさねやがては天国の話し言葉に到るのだろう
佐々木朔「往信」(『羽根と根 創刊号』(2014/羽根と根)所収)より

 この歌も同様に、朗読という発話行為が、それをひたすら繰り返すことで本来の意味を剥ぎ取られ、何か別次元の高みに到るという神秘的な可能性を提示している。あるいは、そうした可能性を想起させるほどの、ひとつの美しい朗読の光景があったのだろう。こうした美しい瞬間に際して、それを写真的に瞬間を切り取ることで美を保存しようというのではなく、むしろその瞬間を繰り返しループさせ引き延ばすことで、いわば遠心分離器にかけるようなやりかたでその光景の美を抽出しようとするような手法であると言えるかもしれない。「至る」ではなく「やがて~到る」というのは時間的な意味での到達で、短歌定型の中にこうした遠未来的な時間の想像力を付与する鍵として機能しているように思われる。






 最後に蛇足になりますが、佐々木朔さんをお呼びして、本日(7/29)22時より稀風社配信をやります。よろしくお願いします。