父が以前住んでましたと言いかけてやめて鍋へとなだれるうどん (短歌の感想 その3)

父が以前住んでましたと言いかけてやめて鍋へとなだれるうどん
中村美智 (『北大短歌 創刊号』より)

 4月14日の文学フリマで買った本をちまちま読み進めている。その中から一首。


 複数人で鍋を囲む座の光景が浮かぶ。「うどん」が鍋へと投入されるということは、その座も佳境に差し掛かっていると思われる。ふいに話題はどこかの街や地方のことに及び、そこに作中主体は「父が以前住んでました」と口を差し挟みかけて、でもやっぱり口に出すのをやめてしまう。複雑で膨大なコミュニケーションの網の目の中にあって、決して表出することのない、コミュニケーションの澱のような内的な事象が詠まれていて面白い。「住んでました」と丁寧語が用意されていることからして、その座には先輩後輩とか教師と教え子とか、既にフラットでない関係性(社会)があるのだろう。
 「父が以前住んでました」ということを結果的に言わないという選択がなぜ導き出されるかといえば、やはりそれはその事実を提示したところでそこからの話題の広がりに欠けるからだろう。単純に耳に入った何らかの地名から作中主体にとってはすぐさま連想されることであっても、その情報が今いる座にとってどんな意味があるのか、どういう効果を与えるのか、ということを口から出す前に一旦咀嚼したうえで、言わないことにしているのだ。こういうコミュニケーションへのメタ的な感覚というのを世の中の人たちがいったい何歳ぐらいで身に着けるのかよくわからないけれど(僕はすごく遅い方だったと思う)、作中主体の精神年齢のようなものを窺い知ることができる。
 座の全景を見渡せる一方で、そこから切り捨てられていく澱のような思考たちをすぐさま忘れ去ることができないというような、そういう過渡期のような時期はたぶん誰しもあるんじゃないだろうか。それは人が成長していく中ではきわめて短い一時期で、人の一生の中ではきわめてレアシーンとでもいうような瞬間が、うどんが鍋へとなだれ込む一瞬のイメージとともに切り出されている。


 また、口語体の短歌において、科白にあたる部分にカギカッコをつけるべきかとか、そういう短歌における記号の使い方全般の話として、この歌では“父が以前住んでました”がカギカッコで囲われていないことが効果的に作用していると思う。
 カギカッコで囲われた科白というのは、散文的というか、作中主体を経由していない、詠み手による直接的な情景描写、あるいは説明というふうに読まれてしまう。例えば、

「酔ってるの?あたしが誰かわかってる?」「ブーフーウーのウーじゃないかな」
穂村弘『シンジケート』より

とかが会話体の歌として有名だけれど、この歌の良し悪しはさておき、カギカッコがあることで、歌の外側にどうしても情景の観察者、あるいは創作者としての詠み手の存在が透けて見えてしまう。
 “父が以前住んでました”がカギカッコで囲われていないということは、それが実際に発話されていないということもあるけれど、それ以上に、「一度作中主体の内部に取り込まれてから、改めて想起されている」という読みにうまく導けていると思う。この歌全体が同時進行的な情景描写なのか、あるいは事後的な記憶の想起なのか、という違いは、この歌のニュアンスを大きく変えるだろうし、僕はこれを「想起」として読んだほうが味があっていいなと感じる。
 初句の字余りはそれほど気にならない。「言いかけて/やめて」で句を跨いでいるのは技巧的だし、「やめて鍋へとなだれるうどん」の下の句もすごくなめらかで気持ちがいい。