2018年の名歌まとめ

2018年に読んだ短歌の中で個人的に名歌だと思ったものをちゃんとまとめておこうと思ったのでまとめます。順不同です。
名歌は数少ないですが、その名歌に出会うために短歌をやっているみたいな気持ちもある。


にしんそばと思った幟はうどん・そば 失われたにしんそばを求めて

/佐々木朔「まちあるき(全国版)」(『羽根と根』通巻8号 2018.11.25)

 この歌はなんというか、自分の主観というものをすごく大切にしている感じがいい。「うどん・そば」と書かれた幟を「にしんそば」と見間違えてしてしまって、やがてその認識が誤りであったということに気付くのだけど、たとえ誤認であったとしても、自分がそのように見えたそのとき、そこには確かにほんとうに「にしんそば」があった。そのイメージ、言うなればにしんそばのイデアみたいものはまだ語り手の中に確かな存在としてあって、それを求める気持ちもある。
 「失われたにしんそばを求めて」という下句は『失われた時を求めて』を下敷きにしているのだけれど、それ自体遠大な小説であるし、単なる言葉遊びとして以上に、テーマ性そのものの親和性の高さを感じるというか、『失われた時を求めて』におけるマドレーヌの味みたいなものとして、にしんそばの味とか香りとかイメージとか、人生には往々にしてそういう遠大な追憶へと続く穴があるのかもしれない。


給料が少ないと思ったり多いと思ったりすることを部長と話す

/山本まとも「こんな感じです」(『短歌人』2018.12 月号)

 「給料が少ないと思ったり多いと思ったりすること」にはたぶん二通りの解釈の仕方があって、実際に給料が手当とか成果報酬とかで月によって多かったり少なかったりするのか、それとも給料自体は同じ額だけど自分の主観としてそれが身に余ると感じたり逆に不満だと感じたりすることが往々にしてあるのか、そのどちらかだと思うのだけれど、やっぱり「思ったりする」というので、後者の主観的な、体感的な問題のほうなのかなという気がする。というか、後者のほうが断然面白い。一首がよりよく読める解釈を優先するというあれだ。あれも流行った。
 というか、主観的な問題だとすると、こんなこと言われたって部長はどうしようもない。外形的には何も変化していないのに、この歌の語り手の中では同じ金額の給料の解釈が主観的に変わっているという話で、これはもう完全に気分の問題で、部長にできることは何もないに等しいと思う。思わず部長の気持ちになって「だから?」とか「で?」とか言ってしまいそうになる。良くない。まあでもこういう何も起こらないオチのかけらもない話を受けとめるだけの人徳?のある部長だからこそ、こういう話もできるという、わりとほのぼの系の歌とも思う。
 この歌はジャンルとしては職場詠ということになると思うのだけれど、職場詠として、こんなに語り手がキャラ立ちするスタイルというのはなかなかないんじゃないかと思う。強いて言うなら植田まさしとかの四コマ漫画的なものに近いのかもしれない。一般的な職場詠というのはその置かれた環境としての職場のほうに固有の意味付けを付与したり、その固有の環境によって作中主体を定義する方向性がたぶんほとんどで、そういう意味でまともさんの部長シリーズ(こういうヤバい歌が他にも複数あるらしい。僕は「短歌人」の会員ではないので窺い知るのは難しい)はエポックメーキングなのではという気がする。

鳩サブレ型の磁石をロッカーに貼ってた時は楽しかったな

/山川藍『いらっしゃい』(角川文化振興財団2018.3.27)

 今年はすごい歌集がたくさん出たらしい、のだけれどまだほとんどちゃんと読めていないのでよくわからない。この歌は歌集が出る前から誰かの引用か何かで知っていて、前からすごく好きだった歌のひとつだ。
 楽しかった時の思い出があって、それはごく一瞬かもしれないしわりと長めのスパンかもしれなくて、これが「時」であって「頃」とかではないのでそれはわからないのだけれど、でもこれは回想の歌なので、ここで言われている「時」はあくまでも語り手の主観的な時間感覚の中にあるわけで、極端な話、実際に楽しかったのがごく一瞬だったとしても、それを思い出として回想するときにはその時間は永遠にもなりうるので、だからそのことはここでは問題じゃないのだと思う。
 その楽しかった時の記憶として紐づいているイメージが「鳩サブレ型の磁石」というのがすごい。ディティール、質感、配置、全部がすごい。そして何よりその「磁石」というガシェットがその時の「楽しかった」ことの理由とか背景そのものに直接的には何ら寄与していなさそうなのがすごい。楽しかったのは基本的に別の要因があって、でも思いだすのは「鳩サブレ型の磁石」なのだ。それが何故なのかはたぶん本人もわからないのではないか。人間の内部にはそういう言語化未満の底なしの虚無空間みたいなものがあるような気がするときがある。

あふれやまないコーラな夜は雑な敬語の使い手である君にまかせた

/宇都宮敦『ピクニック』(現代短歌社2018.11.27)

 雑な韻律、雑な喩、雑な態度、そして雑な敬語。すべてが雑としか言いようがないのにこの完璧な感じは何なのだろうと思う。天才か。
  「君にまかせた」というのはなんというかポケモントレーナーとか野球の監督みたいなそういう感じの気分かなと思うので、要するにこの「あふれやまないコーラな夜」という状況への対処としては、「雑な敬語」というチョイスがベストで、またその「雑な敬語」というワザの使い手として「君」には全幅の信頼を置いている、という話かなとは思う。どういうことなんだ。
 僕は飲み物としてのコーラをわりと好きなので、「あふれやまないコーラな夜」という状況はなんとなく佳きものかなという直観的な印象があるのだけれど、この歌ではどちらかというと良くない状況なのだろうと思う。というか、どんなものでもそれが「あふれやまない」状況というのは本質的に不穏だし、いくらコーラがおいしいからといっても、何事にも限度というものがある。そういうどうしようもない状況に対して「雑な敬語」をぶつける。ぶつけるとどうなるんだろうか。対消滅したりするんだろうか。でも「雑な敬語」で話し続けるという行為自体は抜本的な解決策というよりもその場しのぎの対症療法っぽい感じもある。よくわからない。
 この歌も歌集ではなくいつかのガルマン歌会の詠草ではじめて読んだ歌で、そのときからずっと気になり続けている歌なのだけれど、歌集『ピクニック』は全体的に本当にヤバいので読んでない人は読んでほしい。まず大きさからしてヤバい。

ガス代を払いに行って帰ってくると玄関ポストにガス代がある

/水沼朔太郎「おでこの面積」(『歌集 ベランダでオセロ』2018.9.9)

 この歌もヤバい。この世界のものすごく壮大な真実(システム)に自分だけが気づいてしまった感じ。
 ガス代を送られてきた払い込み用紙で払うという行為、みたいな月イチぐらいでルーチンを回す定型的な生活行為みたいなものはたぶん他にもたくさんあって、ほとんどの人はそういう作業を特に意識しなくてもできる程度のルーチンに落としこんでいて、特に何かを感じることもなく毎月のガス代を払ったり、あるいは口座振替とかにしていて、そうなるともう所作もなくほぼ無意識下でガス代を払うという行為が完結するようになるので、毎月同じように同じことをして、同じ気持ちになったりしている、ということにも気付かなくなっているのだけれど、要領の悪い人にとってはガス代を払うというルーチンを生活の中に組み込むことはなかなか大変で、ほぼ毎月支払期限が過ぎてから督促状で納めるようになっていたり、べつに金銭的に窮乏しているわけでもないのにガスを何度も止められたりするということがある。ガスは比較的簡単に止まる。そしてこの語り手はその要領の悪さゆえに、このような世界のループもののような再帰的な構造にふと気がついてしまうのだ。
 この認識のトリガーが引かれたのが、じつは玄関ポストに投函されていたガス代の払い込み用紙を「ガス代」と換喩的に認識した自分、に気づいた瞬間なのかなという気もする。この換喩が直観として行われたのは、ちょうど今しがたそれと同じ紙でガス代を払ってきたからなのだけれど、そのときにふと強烈な違和感が働いた、のだと思う。

プリキュアになるならわたしはキュアおでん 熱いハートのキュアおでんだよ

/柴田葵「ぺらぺらなおでん」(『稀風社の貢献』稀風社2018.11.25)

 「キュアおでん」はなんかもう、魔球という感じがする。人間もおでんもともに外部から熱を与えられて、その内側に熱源を持つわけで、人間は実質おでんなのだということがわかる。ひとしきり笑ったあとで完全に納得してしまう。その説得力。






 以上です。よいお年を。