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抒情の方法論

突っ張り棒が突然落ちる 壁紙のくぼみに先を再びあてる (短歌の感想 その7)

短歌の感想 短歌

突っ張り棒が突然落ちる 壁紙のくぼみに先を再びあてる
 /山本まとも「デジャ毛」(「短歌研究」2014.9)

 この一首はいわゆる「あるあるネタ」の歌だろうか。
 たしかに一面においてはそうかもしれないと思う。日々の暮らしの中のさまざまな場面で無言の貢献を続けている突っ張り棒というのは、あるとき何の前触れや予兆もなく、往々にして僕たちの視界に入らないところで、いきなりバサッと派手な音を立てて、支えていた衣服やら箱やらと一緒に落下するものなのだ。そしてまた、僕たちはしぶしぶ重い腰を上げて、その突っ張り棒を持ち上げて、再び元の位置に突っ張らせようとするのである。そうした日々の暮らしの中では光を浴びずに忘れられていく澱のようで、それでいてよくありそうな出来事をあらためて提示してみせるというのは、「気づき」や「(再)発見」の面白さであり、あるいは「あるあるネタ」の面白さに通ずるものだろうと思う。
 しかし、この一首は「あるある」の面白さには決して着地しない。なぜだろう。可笑しさが引いた後に、ぞっとするような感覚の中に取り残されるのだ。それは日常生活の中で何度となく繰り返される、特に意識されない僕たちの動作というものが切り取られることで、それはふいに日々暮らすということ、さらには生きるということの本質に行きあたってしまうからではないかと思う。僕たちは日々暮らし生きていく中で、無意識のうちにある現象に対して同じ動作や行動、言動を何度となく繰り返している。そうした無意識下の反復運動、再帰運動というのが、「生きる」ということそのものなのではないか。ふとそのことに思い至って、背筋をぞっと凍らせてしまうのである。
 そのような効果がなぜ生じるかといえば、この一首の中で、いわゆる「気づき」や「発見」の面白さが、決して一首の主題の座に上りつめないように、演出や表現が巧妙に抑制されているからだ。
 例えばこの「突っ張り棒」を元の位置に戻す際の主体の心情というのを(「うんざり」とか)この一首に入れたり、あるいはおかしみを提示するために「突っ張り棒」を擬人化するようなレトリックを行使してもいいかもしれない。そのような手を加えれば、この歌はより「あるあるネタ」的な面白さに近づくはずだ。
 しかし、そういった演出や主体の内心といったものは、この一首ではむしろ抑制されていて、あくまで出来事の表層をなぞるような語りが徹底されている。このとき、「気づき」や「発見」というのはあくまで語りの材料ではあっても、決して主題をとることはない。そこにあるのはあくまでも発生した出来事の表層であり、その表層を冷たくなぞる主体の認識なのである。


 この「抑制」というのが山本まともという作者を評する上でのひとつのキーワードで、かれの短歌を支えているのは、主体の感情や想像による物語りや詩情を能うる限り抑制し、限りなく純粋な認識のみを提示しようとする姿勢なのではないかと思う。主体の心情をほとんど押し出さない一方で、大喜利的な「気づき」や想像力の面白さで読ませようとするでもなく、ただ事実や出来事の表層に対して忠実であろうとするのである。山本まともという存在は、インターネットに活動の軸を置く歌人の中でも、そのアンチポエジーのストイックな徹底という点で、かなり特異な立ち位置を占めていると言っていいかもしれない。

黒と黄の警告ロープに区切られた領域の横を通って帰る
 /山本まとも「プレパラート」(「東北大短歌」創刊号2014.11)

 上に引用した一首においても、主体はあくまで認識に対して忠実で、この歌では特に想像力が強く抑制されている。
 「黒と黄の警告ロープに区切られた領域」というのが具体的にどのような領域なのか、表層をなぞる以上に深く想像するということを主体は行わない。例えば新たに住宅が建てられる更地であるのかもしれないし、あるいは道路の陥没していて危険な箇所だったりするのかもしれない。もしくは立ち入り禁止の廃墟かもしれない。しかし、主体はそのような「領域」のディティールへの想像や掘り下げはしない。このことはそのまま主体にとっての認識の優先順位を反映していて、その「領域」についての興味関心というのは限りなく低いということの表れなのだろう。あくまでも関心事は帰宅してからのことであったり、あるいは別のことでしかなく、「領域」はただ視界の隅をかすめていく風景の一部でしかない。
 しかしながら、それでも主体は「黒と黄」のいわゆるトラロープが「警告」の意図や意思を発しているということだけは認識しているのだ。認識された事実以上の想像が抑制されることで、ここではむしろ「警告」への認識が際立つことになる。
 思えば僕たちは日々さまざまな場面で、詳細に踏み込むわけでもなく、あるいは内実を理解できないまま、ただ「警告」というメッセージだけを受け取ってしまう。よくわからないけど、ただ「警告」されているのだ。次から次へと新しい出来事が認識下に舞い込んで来る時代にあって、こうした不詳の「警告」というのは、日々の暮らしの中で深く掘り下げられることはなく、漠然と受け容れられて、そして出来事の波に洗い流されてしまう。この一首にはそのような、今を生きるということに対する批評的な視座が根底にあるような気がする。穿ち過ぎだろうか。


 また、忘れてはならないのは、そういった「抑制」の方法論が、それ自体を目的としているのではなく、あくまで語りの道具であるということだ。物語ることを抑制することが語りの道具になるというのはいささか逆説的だが、しかし一方で人間が言葉を紡ぐ以上、あるいは紡がれたテキストを読むのが人間である以上、「抑制」の完璧な徹底というのは不可能で、どんなに出来事の表層をなぞることに徹しようとしても、必ずどこかに物語が滲み出てしまうのではないか。そして、その不徹底を欠点とするのではなく、逆に利用することによって、山本まとも作品は成り立っているのではないだろうか。どんなに抑制しようとしてもなお滲み出てくるほんの一滴の詩情を求めて、安易に作られうる詩情をかれは排そうとしているのかもしれない。

ヒッチハイクのコツの話を思い出し事務所の外の道を見ている
 /山本まとも「デジャ毛」

 ヒッチハイクによって現実社会を生活を逃れることは難しい。「事務所の外の道」は決して未知の世界には繋がっていない。それでもなお、救いへの希求がふいに現実の風景にダブってしまうことがある。それはほんのふとした一瞬で、その一瞬「事務所の外の道」の光景はきっと美しいものだったろうと思う。しかしほんの一瞬美しいエスケープルートに映ったその道は、すぐにもとの現実の殺風景な生活道路に戻って、そこを軽トラックか何かが通り過ぎて行ったのではないか。すべては僕の想像である。




 明日2/8(日)21:00より、山本まともさんをゲストにお招きして、稀風社配信第17回をやります。テーマは「野球」。野球回のあるアニメは名作と言われています。よろしくお願いします。