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抒情の方法論

しろくまカレーライス園 そこではみんながにこやかにカレーを食べてしろくまを見る (短歌の感想 その6)

短歌の感想 短歌

しろくまカレーライス園 そこではみんながにこやかにカレーを食べてしろくまを見る
(溺愛「動物図鑑」神大短歌1号/2014.9)



 初句に提示されている「しろくまカレーライス園」というフレーズは独創的な固有名詞で、それに対してスペースを空けた二の句以降には「そこでは~」と「しろくまカレーライス園」についての説明になっている。これは言わば「問」と「答」の構文で、初句で提示された情報に対する読者の疑問が、二の句以降で明かされていくのである。あるいは大喜利的な作歌方法であると言えるかもしれない。
 「しろくまカレーライス園」という名詞に対して、「カレーを食べてしろくまを見る」というのはある程度想像がきく。読者にとっては予定調和的な安心感のある要素だ。また、「みんなが」というのも、まあ「園」なのだからそうなのだろうと思う。問題は「にこやかに」だ。この「にこやかに」という要素だけが、初句からインスピレーションを得た読者の予測の範疇を超えて、この空想上の「しろくまカレーライス園」に紋切りでない不思議な立体感と奥行きを与えているように思われる。表面的な情報に奥行きが与えられることではじめて、読者の中に「景」としての「しろくまカレーライス園」が、ほのぼのとした多幸感とともに立ち上がってくるのだ。
 この既知と未知の絶妙なバランス感覚が、この一首に単なる大喜利的なシュールな面白さに終わらない詩情をもたらしている。一見ただの奔放に見えて、その実とてもするどい言語感覚に掌られた一首であると思う。


 また、この一首の韻律に着目すると、まず初句が十二音、二の句が八音、そして三の句以降が五七七で、上の句に盛大な破調を内包している。特に初句の十二音というのが強烈で、ここまでくるともはや五音の枠に収めて読み下すことは不可能で、「字余りによって性急な印象を与える」といった技法では説明できるものではない。むしろ五音の枠をはみ出て溢れだすことで、「しろくま/かれー/らいすえん」という四・三・五の短歌定型とはまた別個の韻律が意識される印象がある。二の句の「そこではみんなが」は格助詞の「が」が韻律の上では余計で、一首をぎこちなくしているようにも見えるが、ここではおそらく韻律のスムーズさよりも、口語としての自然さや素直さが表現価値として優先されたのだろう。
 しかし、上に述べたような分析はこの一首全体の中での破調の意義や効能を説明するものではなく、あくまで局所的応急的な読みでしかない。一首全体に視野を広げると、むしろこの初句二の句の破調は、三の句に向けて徐々に収束して、三の句以降に定型へと復帰していくことを引き立たせて、さらに言えばその落差によって三の句の「にこやかに」を強調する効果を持っているのではないか。歌の内容だけでなく、韻律の上でも、やはりこの「にこやかに」というのがこの一首の核ではないかと思う。そう言った意味で、この一首の中で韻律と抒情というのは互いに連係しあっている。決して無意味な逸脱ではないし、また同時に決して単なるシュールでもないのである。




 21日(日)21時から溺愛さんをゲストにお呼びして稀風社配信をやる予定です。よろしくお願いします。