石井僚一「父親のような雨に打たれて」を読む

短歌研究 2014年 09月号 [雑誌]

短歌研究 2014年 09月号 [雑誌]

1.石井僚一さんについて

 石井さんとはこの前の九月の下旬にはじめてお会いした。それ以前にもUSTREAMでの歌会配信やtwitter等、インターネット上での関わりがあり、なんだかエキセントリックな人物だなという印象を持っていたのだけれど、実際会ってみるとなかなかハンサムな方で、知能が高く非常に頭の回転の速い好人物であったように思う。
 そうした彼の知性は彼の短歌研究新人賞受賞作であるところの「父親のような雨に打たれて」にも如実に生かされていて、「父」への「挽歌」であるという内容に対する先入観や外部文脈を排して読めば、読まれそして語られるためのクレバーな工夫が随所で機能していることがわかる。短歌の「連作」という媒体を、個別のテクストを混載した乗り物ではなく一個の自立し流通する作品に仕立てるというところの方法論に、彼がこの一連において示したかった問題意識というものがあったのではないかという印象を僕は抱いている。
 しかしながらこの「父親のような雨に打たれて」は、発表以来その「連作」をめぐる方法論ではなく、彼が作中において実父と実祖父の関係をモデルとして主体を仮構し、それによって「父の死」という物語を演出したことについて、その是非を含めて大きな注目が寄せられている状況である。こうした現状はおそらく石井さんの当初の意図とは大きく外れた状況なのだろうと思うが、そういった読みをされることを製作の段階で想定して配慮できなかったという点で、この「父親のような雨に打たれて」は、言わば「失敗作」とでも評すべきものなのだろう。石井さんの想定以上に短歌という詩型は読者の共感を強く喚起するものであるし、またさらに強い共感の磁場を持つ「挽歌」という形式をとったことも、彼自身の問題意識を提示する上では大失策であった。*1
 とはいえ、この石井僚一という歌人は、この「父親のような雨に打たれて」の一連によって世に送り出されたのである。何かにつけてこの「失敗作/受賞作」に紐付けて語られてしまうであろうことには同情できる部分もあるが、あるいは彼にとってこの作品は、背負うべき十字架になっていくのかもしれない。彼自身に知性と才能があることは間違いないので、なんとか上手い背負い方を見つけていってほしいと思う。



2.虚構を詠むということ

 石井さんに限った話ではないが、短歌において〈私〉の存在を打ち消そうとしてみたり、作中の〈私〉を仮構することで歌の内容を真実性から引き離したいという意思の根っこには、多くの場合作者の自己否定感が横たわっているように思う。等身大の〈私〉に表現価値を見いだせないからこそ、それを打ち消したり、ありうべき〈私〉を仮託した他者に成り変ってみたりするのではないか。それ自体は批判されるべきものではなく、人間が成熟する過程に負うある種普遍的な苦しみや痛みの表出なのだろう。
 「父親の~」の中で石井さんは、「死の間際の祖父をみとる父の姿と、自分自身の父への思いを重ねた」(2014/7/10道新朝刊)のだそうだが、「思いを重ねた」の解釈が難しいが、おそらく「父の死を看取る自分」、あるいは「もしも実父が死んだら自分はどのような内心の変遷を辿るだろうか」という仮構が彼自身の中で組み上がっていったのだろう。「〈私〉→(父→祖父)」というような彼の主観からの認識に忠実な形式での描写をとらなかったのは、やはり彼自身の中に〈私〉の「父への思い」という内心の情を率直に語れないある種の屈託や自意識があって、それが忌避させてしまったものであるかもしれない。
 なんにせよ、その仮構は〈私〉の内側で組み上がって拡張されていった、言わば仮想された〈私´〉とでも定義すべきものである。〈石井僚一〉では彼が語れないものを、〈石井僚一´〉に仮託して語らしめたというのがこの、「父親の~」の外部構造であると言える。
 短歌に限った話ではなく、作中主体がフィクショナルな存在であったとしても、その主体が作者の人格から全く逃れた存在であると言える例はそれほど多くない。むしろ、それが虚構であるからこそ、作者の理想であったり願望であったり、あるいは反駁の対象だったりといった構成要素を如実に反映していると考えるべきだろう。だから、主体や設定が虚構であったとしても、語りの内容までも作者に紐付かない虚構であると一緒くたに断じて「騙された!」と言ってしまうのはいささか安易である。
 ただ、短歌研究2014年10月号に掲載された「虚構の議論へ」において加藤治郎氏が「虚構の動機がわからない」と疑問を呈していたのは全くもっともで、この虚構は石井さんが、新たな方法論の提示や前衛短歌の流れを引いた問題提起を目的として積極的に行ったものではなく、まして読者や選考委員を騙そうという悪意があったわけでもない。「虚構性の可能性を追求する作者」という短歌2014年11月号誌中における黒瀬珂瀾氏の評価も、今の石井さんについては過大評価であると言わざるを得ない。あれは彼の自意識の屈託が消極的に選ばせた手法でなのである。もしかしたら自覚的ですらない、手癖のようなものであったかもしれない。*2



3.「老人」と「父/父親」と「あなた」

 「父親の~」の中で最も特徴的で、かつ効果的であったろうと思われるレトリックが、作中主体が父との相克を乗り越えていく過程で父親の人称が「老人」から「父/父親」を経て「あなた」まで変化していくということで、さすがに最後の「あなた」は大袈裟すぎるのではないかという気がするが、これを作者曰く「慌てて練り上げた」(「虚構の議論へ応えて」短歌研究2014年11月号)と言うのだから本当ならば恐れ入る。

「スピードは守れ」と吐きし老人がハンドルをむずと握るベッドで
己が青春に造りし道路を守らんと徘徊老人車に開(はだ)かり
父危篤の報受けし宵缶ビール一本分の速度違反を
遺影にてはじめて父と目があったような気がする ここで初めて
傘を盗まれても性善説信ず 父親のような雨に打たれて 
ネクタイは締めるものではなく解くものだと言いし父の横顔
助手席の永遠の行き場所とする法定速度遵守のあなたの

 多いのですべてを引用したわけではないが、「父の死」という事柄をきっかけとして、父との相克を乗り越えていく作中主体が描かれている。特に作中主体が相克の深い「父」の存在を受容する瞬間が、「傘を盗まれても~」の表題歌になっており、三十首一連で読ませるとても計算された巧みな構成だ。また、「父危篤~」の歌ではじめて「老人」が作中主体の父であるということが明かされるという序盤の構成も、読者を一気に物語へと引き込んでいくような効果を持っている。やはり「謎が明かされる」過程というのは読者にとって愉しいものだ。
 これらの仕掛けはどれも言ってみれば散文で物語る際の技法であって、やはり石井さんの本来の問題意識の主眼が、「連作で物語る」こと、あるいは「散文の理論で短歌は可能か?」という問いにあったのだという僕の確信はこのあたりにある。
 けれどもこうした仕掛けは、作中主体の年齢を作者である石井さんの年齢(25歳)であるという先入観のもとで読んでしまうと、うまく機能しなくなってしまうという問題がある。実際、僕がtwitter等で見聞きする限りでも、この「老人」が「父親」であるとは読めなかったという声は少なからずあった。

祈るしわくちゃの手に囁くように「いただきます」と「ごちそうさま」と

 という歌があるので、冒頭一首目の「「スピードは~」の「老人」が主体による過剰な形容であるとは読み取れず、やはり実際に手がしわくちゃになるほどに年老いた老人がいるのだということになる。おまけに「徘徊」までしているのである。
 また、それでは作中主体と父親は50歳近く年齢差のある親子ということでいいじゃないか、という解釈もできそうだが、その方向性も「ネクタイは~」の一首の存在が阻んでしまう。この歌に出てくる「父」は中~壮年期の、道路建設か何かに従事していた頃のもので、「ネクタイは締めるものではなく解くもの」というのは、「父」の意味深な生きざまであるともとれるし、あるいは高度経済成長期のブルーカラー労働者に普遍的な「ネクタイ」観であるのかもしれない。なんにせよ、その姿を記憶にとどめている主体が、20代の若者であるというのにはどうしても無理が生じてしまう。
 しかし、それよりも僕が問題にしたいのは、末尾の歌の「助手席を永遠の生き場所とする」である。水筒が振り回されるほどの深い相克の後に作中主体が辿りついた結論が、こんなものでいいのか。選考の中で穂村弘氏が「僕は永遠にあなたの子供ですよということですよね」と述べているが、そんなものははっきり言って「お母さんありがとう」系HIPHOPと同レベルだろう。結局のところ主体は父の存在を乗り越えることができず、父の死後もなお、「永遠に」服従していくというのである。これはこの作品一連の作中主体〈石井僚一´〉の問題でもあり、当然その生みの親でもある〈石井僚一〉の問題でもある。「虚構の議論へ応えて」の中で石井さんが「僕はその果てで父の死は想像しえないことを学んだ」と述べているのは、つまるところそうした仮想上での相克の限界なのではないかと僕は思う。



4.「法令順守」と「性善説」をめぐって

 「父親の~」を一読して僕にとって最も気になったことは、この作中に出てくる親子が、異常言って差し支えないほど、道路交通法という法規範に強く執着していることである。特に「スピードを守る」ということについてのこだわりは、単なる善良の領域を逸脱して、幼児的な盲執であるとさえ思える。

「スピードは守れ」と吐きし老人がハンドルむずと握るベッドで
己が青春に造りし道路を守らんと徘徊老人車に開(はだ)かり
父危篤の報を受けし宵缶ビール一本分の速度違反を
助手席を永遠の生き場所とする法令速度遵守のあなたの

 おそらくこの作中主体は、父の生き方を肯定し受容するよすがとして、この道路交通法遵守への強い執着に美点を見出しているのだと思われる。そして本人もまた、父危篤の報を受けて、急いで自動車を走らせて駆けつけた際に速度違反をしてしまったことを気にしているようで、こうした執着点の一致に逃れ難い血の繋がりというものを感じているのかもしれない。*3
 しかし、それは本当に愛すべき美点なのだろうか。二人の関係の全くの部外者である僕は、強く疑わざるをえない。スピード違反をしたほうがいいというのではなくて、この父親というのは、些細なことに異様なまでの執着を抱いていて、さらにたちの悪いことには、そのこだわりを他者に対して押しつけてしまう人物なのだ。呆けてしまって徘徊していてもなお、スピード違反と思しき自動車を見るや、それに立ちはだかってしまうほどなのだから、周囲もほとほと迷惑していたに違いないと思う*4。そしてこれは僕の想像を含んでいるが、作中主体はそういった父の異常さに対して反抗していたのではないか。なのにそこを、父が死ぬやいなやあっさりと呑み込んで受容してしまうというのは、僕にはどうも納得がいかない。
 さらに釈然としないのが、この父親の「法令速度遵守」への執着が、「性善説」に結びつけられていることである。

傘を盗まれても性善説信ず 父親のような雨に打たれて

 この歌における「性善説」は、おそらく「父親」の生きざまに紐付けられているのだが、上に述べたような父親像というのは、明らかに「性善説」とは逆の信条を持った人物なのではないか。「法令順守」と「性善説」はイコールで結ばれないどころか、真逆の概念でさえあるように思われる。そもそもこの父親は、他者の善性を信じていないからこそ、自分は頑なに法規範にこだわり、他者に対しても同じことを求めているというふうに解釈せざるを得ず、これは明らかに「性悪説」的な生き方なのである。
 また、「法令順守」を無批判に「善」であると結びつけてしまう作中主体にも思慮の浅さを感じざるを得ない。法令を守っているから善だ、あるいは法令に違反するから悪だ、という世界観は、世界に対する多面的な視座を欠いていて、大の大人のものとは思えない極めて幼稚なものだ。作中主体〈石井僚一´〉は読み取る限りではおそらく50歳前後の人物であり、これほど幼稚な世界認識を持った50歳代の男性というのが、本当に実在しなくて良かったと僕は心から思う。*5



5.失敗作と新人賞

 上に述べたような「父親の~」をめぐるいくつかの矛盾点は、「父と息子の相克」という主題の根幹に及ぶものであって、この作品が「虚構」という形式をとったことに対する是非以前に、そもそも「虚構」としてあまりにも詰めの甘い部分が目立つというように結論づけざるをえない。真実であるという担保のないフィクションにこそ強く求められるはずのリアリティが、いくつかの点で致命的に欠けている。一方で、この作品を作者の実生活に基づいたノンフィクションであると捉えると、なおさらこの作者=〈私〉には評価できない致命的な思慮の浅さが見えてしまうから、どのみちこの作品は本来評価に値するものではない。
 僕はこの作品を誌上で一読したときに、なんとなく不自然で嘘が混じっていると感じたし、むしろどうか虚構であってくれとさえ思った。肉親の死に対してこんなに理解しがたい内心の動きを示すような人には短歌をやっていてほしくない。だから内幕を聞いて正直ほっとしたところが大きいのである。
 では一体なぜ、この作品が不幸にも受賞作になってしまったのか。それはやはり、選考過程のオープンにされている部分を見る限りでは、「挽歌」だったからだと言わざるを得ないだろう。「挽歌」というだけで選考委員諸氏の共感バロメータの針が振り切れてしまい、適切な読解と正しい判断ができなくなってしまったのだろう。そう言う意味で、「挽歌」+「虚構」+「新人賞」というのはまさに混ぜるな危険の組み合わせで、これを偶然の差配で、一定以上の完成度で作り上げてしまった石井さんという人物は、何か持っているのかもしれない。
 僕は以前石井さんに「父親の~」の感想を問われた時に、「心に残った歌は何も無かった」というようなことを失礼ながら言ってしまって、石井さんはナイスガイだから笑いながら「そうですよね~」と返してくれたのだが、実は一首だけいいなと思った歌がある。

コンビニの自動ドアにも気づかれず光として入りたくもなる

 「光」に仮託された静謐な抒情があり、それと同時にその静謐を許さない「コンビニ」という常に音と光を放ち続ける消費空間がある。一連の中でこの一首だけはなぜか、〈私〉を仮構するのではなく〈私〉を打ち消す方向に強いベクトルを持った歌で、〈私〉の存在感を消したいという強い希求が、ただコンビニに入るというだけの行為でもそれを「光」に託させようとしてしまう。自動ドアが自分を察知して開く瞬間というのは、否応なく自分が自分としてここにいるということを認識させられる瞬間なのだ。また、「ひかりとしては/いりたくもなる」という下の句の句跨ぎが印象的で、屈折した心情、あるいはコンビニのガラス窓に屈折する光を思わせる。
 そうした〈私〉を打ち消したいという希求はネガティブな自己存在への嫌悪感に基づいたものであり、同時にか細いSOSの声でもある。都市的な消費空間の光景に、通奏低音として流れ続けているかすかなSOSである。
 こういう歌が詠めるのだから、彼はたぶんうまくやっていくだろうと思う。作品に対してはともかく、決して作者に対して分不相応な賞が与えられたわけではないはずだ。

*1:この「父親の~」という作品は、あるいは読む人の共感能力の高低を測るリトマス紙のようなものであるかもしれない。もしかすると、誰かの肉親の死に際しての心境を綴った作品に「失敗作だ」なんて、よほど共感能力が低い人でなければ考えもしないのかもしれない。

*2:石井さん自身が「父の死」を騙ることを重大なことだと認識していなかったから、「受賞のことば」等の場で明かされなかったり、あるいは実父の存命を隠蔽するようなこともなされなかったのだろう。

*3:しかし、無粋なツッコミが許されるのならば、速度違反よりも飲酒運転のほうを気にしてほしい気もする。

*4:これも無粋なツッコミであるが、徘徊ボケ老人がいきなり立ちはだかってきたせいで不運にも人殺しになってしまった当該ドライバーには深い同情を禁じえない。

*5:しかし、この50代男性に新人賞を授与するつもりだった方々がいるらしい。