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抒情の方法論

父といて父はるかなり春の夜のテレビに映る無人飛行機 (短歌の感想 その1)

父といて父はるかなり春の夜のテレビに映る無人飛行機
寺山修司未発表歌集 月蝕書簡』寺山修司(田中未知編)より

 これから読んだ短歌の感想をちょくちょくブログに書いていきたい。


 いきなり上に引用した歌ですが、寺山修司晩年の未発表作品。「父」というモチーフは「故郷」や「母」などと同じくらいには寺山作品にありふれたモチーフだけれども、晩年の作ということも考えると「父」にも単なる対象として以上に複雑なニュアンスがこもってくるのかなという気がする。同じく『月蝕書簡』には

地の果てに燃ゆる竃をたずねつつ父ともなれぬわが冬の旅

というような歌も収録されているし、「父といて~」にも同じく「父」へと投影される部分があるのかもしれない。


 「父といて父はるかなり」というのは実体としての距離と心理的な距離とのギャップがあるということなんだろう。「父」がそこにいるはずなのに虚ろで遠い存在に感じられる瞬間、「父」という強固であるべき概念がぐらつくような一瞬というのは、(子)の側から見るとわりと普遍的な主題だし、ともすると寺山修司らしくないような感じもする。人が育っていく過程のどこかで、親というのが絶対的な存在から相対的な存在へと変わっていく、その過渡期の光景なのかもしれない。
 その実体があっても存在が虚ろな「父」に、「テレビに映る無人飛行機」が重ねられている。「テレビに映る」「無人」というのは二重の距離感で、そこに見えるのに触れないこと、人間が不在、あるいは枠外のどこか遠くに存在していること、というような感覚だろうか。また、この「テレビに映る無人飛行機」というモチーフ自体がどことなく70年代的で、いわゆる「うたのわかれ」以前との世相的な意味での違いが反映されているのかもしれない。
 ただ、ちょっとよくわからないのが、「春の夜の」という時候を限定する表現が全然歌の中で生きていないような気がするところだ。「春の夜の~」がかかるのはテレビ(の中の映像)だから、それによって無人飛行機のいる空間における時候が決定するわけではないし、逆にいつの季節のテレビであろうが、そこに映し出される無人飛行機の映像に違いが生じるわけでもない。だからこの繋ぎの部分だけ歌の中でぽっかり浮いてしまっていて、不思議な感じがする。何かこの部分に元ネタがあるのか、もしくはある種の時事ネタ的な要素としての必然性があったのか、知っている人がいたら教えてください。


 そういえば「実体としての距離と心理的な距離とのギャップ」といえば紀野恵の「不逢恋逢恋逢不逢恋~」というあれもそうで、「逢不逢恋(あふてあはぬこひ)」というのは字面通りに受け取るとやっぱりそういう、「実体としてそこにいるのに心理的な距離が遠い」ということだし、身も蓋もない話をすると、こういう普遍的な抒情をどういうふうに料理するかみたいなところに、短歌のすごい人のすごい部分があるんだろうというような気がする。


寺山修司未発表歌集 月蝕書簡

寺山修司未発表歌集 月蝕書簡