いつか誰かに話したことの焼き直し

 世の中には類友の法則とかいうのがあって、それはインターネットでも例外じゃないどころかインターネットではむしろ加速されるせいで、社会生活を営むのにに何らかの問題がある(自称)人とばかり知り合って交流を深めていってるブログ5年目ツイッター4年目の現状があるのだけど、そうするとだんだんと、いわゆる「コミュ障」の類型が、自分のそれも含めてわかってきたような気がする。


 もう少し具体的に言うと、「コミュニケーション能力」とかいう用語には2つのレイヤーがあって、それを混同してしまうと全般的な能力の低い人は社会生活を営めないスパイラルに陥ってしまうんじゃないかみたいなことだ。「全般的に能力の低い人」ってかなり酷い言い方な気がするけど、少なくとも専門家でもないのにときとうな病名とか障碍を当てはめてどうこう言うよりかはましなんじゃないかと思う。
 単純労働が駆逐され知的労働と感情労働だけが残されつつある現代社会の中にあって、「コミュニケーション能力」とかいうけったいな概念は人間が社会的に生存していくための必須の力とされているわけだけど、この「コミュニケーション能力」にはおそらく2つの側面があって、これがときに無自覚に、ときには意図的に混同されてるせいでいらぬ苦しみを抱いている人って多いのではないか。その2つの側面というのは、

① 情報を適切に伝達する能力

② 相手に好感を持たれる能力

のふたつで、これらは本来全く別の技能であるはずだ。
 おそらく定型発達の人はナチュラルに双方をうまいこと備えているせいで、このふたつの異なった能力のことを無自覚に混同して語ったり求めてたりしてしまうのだと思うのだけど、②を備えていない、原理的にほとんど備えることのできない人が②を求め続けて空回りして、結果的に①さえもうまくいかなくなってしまうみたいなことがよくあるのではないかと思う。②の影を求める過程で自分への失望を繰り返して①を遂行するために必要な最低限の自尊心みたいなもの(これはもっとうまい言い方がある気がする)を失くしてしまうみたいな、そういう負のスパイラルが全般的に能力の低い人界隈にわりと蔓延している気がする。
 異論はあると思うけど、僕の考えでは②は社会生活を営む上で必須の能力ではない。少なくとも①よりははるかに重要性は低いはずだ。むろん、①の能力も、界隈の人にとって獲得することが容易い能力では決してないのだけど、②よりはまだ訓練によってどうこうなる部類だと思う。我々は、生き残るために②を捨てて①を取りに行くべきなのだ。
 例えば①の中には「不文律を理解する」とか「ジェスチャーを読み取る」みたいな力も含まれているのだけど、別にわからないことは「今のそれ、わかりません」と言ってしまえばいいのだ。結果的にそれできちんと情報をやりとりできるなら、それでいい。それによって多少疎まれようとも知ったことではない。「②を捨てて①を取りに行く」というのはそういうことだ。コミュニケーションによって相手に好感をもたれることへの期待を放棄することによって、皮肉にもコミュニケーション自体は格段に楽になる。それはおそらく今まで②のほうに脳みその、ただでさえ限られているリソースの大半を割いてしまっていたからなのではないかと思う。


 べつに人間は、好かれなくても、嫌われようとも生きていける。たとえそれによって周囲に嫌われようとも、情報伝達の連関の中に加わることができさえすれば、社会的に生きていくことが可能で、社会的に生きていくことによってお金が得られるし、お金によって尊厳ある生を生きることも可能になると思う。もちろん②を欠いていることによって付きまとう問題、例えば友達ができないとかそういう人生の問題は温存されたままなのだけど、少なくとも読めない「空気」を読もうとしてずっと空回りするよりはだいぶましなんじゃないかと思う。言わば、「空気を読めない」から「空気を読まない」へのシフトだ。
 見えないものを見ようとしたり、できないことをやろうとしても、人間は幸せになれないんじゃないか。少なくともできもしないことに固執して終わる人生なんてあまりにも無駄すぎる。