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抒情の方法論

抑圧の光景のこと

 最近これの編集作業をぼつぼつと進めていて、インターネットの素人(僕もだけれど)のひとの短歌を、今までにない量とペースで読んでいるのだけど、そういう作業をしていると、短歌って一体何なのかよくわからなくなってくる。いや、もともとわかってなんかいなかったのだけど、それに深く直面せざるを得なくなってしまったのだと思う。


 短歌って何だろう。最大公約数的なことを言えば、それはただの詩型であって、それ以上でも以下*1でもないだろう。僕も基本的にはこの意見に賛成で、5・7・5・7・7という韻律に、これがひとつの定められた詩型であるという以上か以下の何かを誰かが見出しているとすれば、それは間違いなく一種の幻想にすぎないのだと思う。
 にも関わらず、多くの人は何もないはずのところに、関連のないものどうしを勝手に頭で繋ぎ合わせて、余計な文脈や意図や価値を見出してしまいがちで、おそらく僕も例外ではないはずなのだ。また、その幻想の個々人の中での枠組みが、歌人の個性であったりもするんだろう。ただ、これが初心者の場合になると、自分の抱いている幻想を自覚できていないぶん、それが露骨に、コントロールされずに出てきてしまうのかもしれない。
 何人ものひとの詠んだ短歌に触れて、各人ともに同じ詩型にさまざまな幻想を抱いていることが見えてきて、それは当然面白いことでもあるのだけれど、じゃあ自分はどうなんだ、短歌という詩型に3年という長いとも短いとも言い難い時間をかけて、いったいどんな幻想を観てきたのだろうという問いがどうしてももたげてくる。


 はっきり言って、僕はこの問いを今までずっと、ありとあらゆる手を使って避けてきた。あえていろいろな人の歌風を摸倣してみたり、文語と口語のあいだを行ったり来たりしてみたり、とにかく自分の短歌に自分の個性のようなものが出てきてしまうのを(それが成功していたかは別にして)徹底的に避けてきた。叙情を自分の感情にすることを避けてきたし、逆に自分の感情でさえ無ければ何でもいいとすら思っていて、そしてそれは現時点でもそうだ。
 それはいわゆる<私>に関すること*2でもあるのだけれど、とにかく僕は、僕の短歌を「僕自身」の居ない、文字列のどこをめくっても表出してこないような世界にしたいと望んでいて、あるいは、短歌という詩型には、そういう世界を創作することが可能なのではないかという期待があって、それが今日まで僕をこの詩型に執着させているのだと思う。そういう意味では、たぶんこの期待こそが、僕にとっての裏返しの幻想なのだ。


 おそらくこの考えは多くの人の賛同を得ないと思うのだけど、短歌という詩型は、感情や個性を抑圧する装置として機能しうるのではないかと思う。抑圧された光景、没個性的に世界を切り取る窓や額縁のようなものとして、僕は短歌を捉えていることが多いと思う。
 どうして賛同を得られないのかというと、それはたぶん、多くの詠み手にとってこの詩型は、作者の感情や個性を「増幅」あるいは「変換」させる装置であると捉えられているように感じるからだ。特に口語短歌の領域において、この「増幅」への信仰が顕著であるように思う。ある感情やそれに類するものを、短歌という詩型に投げ込むと、それが「増幅」ないし「変換」される、そういうブラックボックスのような装置として、捉えられているのではないか。
 「変換」はともかくとして、「増幅」と「抑圧」はそれぞれ全く逆の概念であり、それらはまったく逆の働きをする装置と言っていい。だから僕はたぶん、特に「増幅」を期待している人とは全く逆の見方や感じ方を、短歌についてしているはずだ。そもそも僕は、短歌を感性のブラックボックスにはしたくない。


 個性を抑圧するのは様式であり文法だ。あるいはその先に様式美の世界のことを見ているのかもしれない。短歌はそもそも定型詩で、その中でことばは様式や文法によって有形無形の制約を受けている。しかしおそらく制約がことばを「増幅」させも「抑圧」しもするのだけれど、どちらへ作用させるにせよ、そこにあるのは明確な方法論だったり様式であってほしいと切に思う。
 

*1:たとえば定型から極端に逸脱して、そのことに価値や意義を見出しているような人もいるけれど、そういう場合は「以下」に類するんじゃないかと思う。

*2:前にhttp://kifusha.hatenablog.com/entry/2012/04/22/173022で詳しく述べました