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抒情の方法論

定型詩と「説明的」であるということについて。

 このブログのサブタイトルが「抒情の方法論」であったことをふいに思い出したので、そういう話をしたいと思う。


 この前とある人の短歌についてツイッター上で少々言及をしたのだけれど、そこで何の前置きもなく「説明的」という言葉で言い表してしまったのを少し反省している。もう少し前の段階からきちんと伝えないと、言わんとしていることが伝わらないのではないかと思うし、実際、言われたその人は頭ごなしによくわからない言い方で切り捨てられたとしか感じていないと思う。だから「説明的」であるということはどういうことなのか、さらに言えば「説明的」であることの何がダメなのか、どうしてそれがそこまでひどく糾弾されるものなのか、そういうことをちゃんと言わないといけないし、自分の中でもちゃんと筋道を立てておきたい。


海を知らぬ少女の前に麦藁帽のわれは両手をひろげていたり


 説明を長々とするよりかは具体例を出したほうがいいと思う。これは寺山修司という有名な人の有名な歌だけれど、この歌の優れている点、というか寺山修司という歌人の特徴的な点、称賛されもして、同時に悪しざまにも言われる点というのはやはりこの、過剰なまでの物語性や、極端なほどの演技性だろう。「海って一体どのくらい広いの?」と尋ねる少女の前で、男の子(われ)はばっと大げさに両手を拡げて見せて、「このくらいさ!」なんて言うのだろう。例えばそういうキザで鮮烈なひとつのシーンが、読み手の中に立ち上がってくる。
 ともあれ、この歌の内容に関する解釈や鑑賞はひとまず隅に置いておいて、ここで注目してほしいのは、この歌の中には、端的な事実関係しか詠みこまれていないということだ。たとえば上に述べた「海って一体どのくらい広いの?」「このくらいさ!」のような科白などは詠みこまれていない。また、「両手をひろげていたり」という静止したひとつの状態を詠んではいるものの、ばっと手を拡げたとか、わざとらしくとか勿体ぶってだとか、動きや時間の流れの中から読み取れるような情報は一切省かれているのだ。この短歌はいわば一枚の静止画のようなもので、にも拘らずそこからは動的で抒情的なシーンが浮かびあがってくる。
 たとえば、上に僕が書いたシーンのイメージが先に詠み手の中にあって、それをいわば逆再生して短歌を詠もうとするとき、こうした言葉の選び方ができるかどうかというのが、「説明的」であるかそうでないかということにつながってくる。ここで、「海って一体どのくらい広いの?」「このくらいさ!」のような科白をそのまま定型の中に持ち込んでみたり、腕を「ばっ」と、「思いっきり」拡げたとか詠みこんだりするのは、はっきり言ってあまり巧いとは言えなくて、なぜならそうした言葉の選び方は非常に「説明的」だからだ。


 そろそろ本題に入ろう。「説明的」というのは、つまるところ31音の定型詩の中に、詠み手が表現したい情景や心情などをそのまますべて詰め込もうとしてしまうことなのだ。
 多くの初心者の人にとって、31音というのは非常に狭く感じられるだろうし(そしてそれは実際に狭い)、57577の定型というのは非常に窮屈で邪魔なものに感じられるのだろう。それはもちろん自分もそうだったからというのもあるれども、やはりまだ言葉の取捨選択をする技能が身についていないからなのだろうと感じる。また、詠み手自身の「読む」能力が拙いために、読み手(誰だって無意識に自分と同レベルの読み手を想定するものだろう)が、きちんと狭い定型の枠の中だけで自分の表現したいものを読み取れるかどうかが不安で、その結果ある種のサービス精神のようなものを発揮してしまうからという理由もあるかもしれない。ともあれ、私は初心者だとのたまう人の詠む短歌のほとんど全部が、びっくりするくらい「説明的」なのだ。


 「説明的」なことの何が悪いんだ、「説明的」であることの良さみたいなものだってあるんじゃないかと言われるかもしれないが、あえてそれは否定したい。なぜなら短歌と言うのは定型詩で、57577という定型は、非常に窮屈で狭苦しいものだからだ。
 31音と言うのはほんとうに短いし狭い。ブログだったらこんなにも長々とどうでもいいことを書き連ねることができるけれども、短歌はそうではない。音や拍という限りある資源を少しでも有効活用しないと、短歌と言う媒体で「表現」なんてできっこない。できたとしてもそれは薄っぺらでスカスカなものにしかなりえない。だから短歌の定型の中で、「言いたいこと」「伝えたいこと」の説明なんかに終始している場合ではないのだ。
 じゃあどうすればいいんだというと、定型と言う枠の外、いわば「余白」の部分に目を向けることが重要なのだと思う。この「余白」の広さはまさに無限大で、この余白を広く使うことができればできるほど、表現の幅も当然ぐんと広がるし、そこまできてようやく短歌は「表現」のための媒体たりうるのではないかとすら思う。上に引用した歌はまさにその「余白」をあざやかに使いこなしている好例だろう。定型の枠の中には静止画的な叙景だけを描いて、その「余白」に、背景的なさまざまな物語や抒情が複合的に浮かび上がるように設えられている。


 とはいえ、いきなりこんな高度なことを実践に移すことは難しいだろうと思う(僕もこんなのは無理だ)ので、もう少し実践的な方面に踏み込んだ話をして終わりにしたい。
 叙事詩と叙情詩、あるいは叙事と叙情という言葉があるけれども、多くの人が詩を書くとき、叙情(心情、思いについて述べ表わすこと)の方向ばかりを見てしまう。それをほんの少しでいいので、叙事(事実や事件を、ありのままに述べ記すこと)や叙景(景色を目に映ったとおりに述べ記すこと)のほうにも振り向けてほしい。最初は退屈に感じるかもしれないけれども、叙事詩と叙情詩は決して二項対立する類のものではないどころか、上に述べたように、叙事によって叙情をより強く深く鮮烈に表現することも可能なのだ。
 また、これは僕がなんとなく感じていることなのだけれど、叙事が叙情を帯びることは多々あるけれども、叙情が叙事を帯びる、ということはおそらくありえない。だから、叙情というのは実は、常に叙事の外側に拡がっている、気体のようなものなのではないかと思う。とすると、気体だけを狭い枠の中に詰め込んでみても、スカスカのぺらっぺらであるように感じられてしまうのはむしろ当然なのではないかと思う。やはり、気体を集めるための、宇宙空間に浮かぶ惑星のような物質的な核としての叙事の存在があってこそ、より密度の高い叙情が描けるのではないか。とにかく、枠の中に叙情をいっぱいに詰め込もうとする人が多いけれども、実は外側の「余白」こそが叙情の主たる領分なのだ。
 だから、それが「言いたいこと」「伝えたいこと」であればあるほど、定型の枠の中には書き込まない方がいいし、書き込まずになおかつそれを「余白」にうまくまとわせるためにはどうすればいいか、というような言葉やモチーフの取捨選択の方法を習得することが、「説明的」であることを脱するための具体的な第一歩なのではないかと思う。