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抒情の方法論

誤配と可能性

 稀風社の今後をめぐるカミハルさんとのお話については、ここで何か書いたり答えたり伝えたりとか、そういうことは特にやらないつもりで、別の機会にスカイプ通話とかでお話合いができればそれでいいかなと思う。少なくとも、全世界というのはさすがに大げさであるにしても、全日本語圏に対して公開する類の応酬ではないだろうと思う。いや、別に僕がこういう判断をすることに対して客観的な正しさなんて必要なくて、単に僕が自分の意見とか感情とかをオープンな状態で誰かにぶつけたりするのがすごく苦手で、恥ずかしくて、最初にそれをやったのはどっちだという話だけど、そういうことはなるべくクローズドな場でやりたいし、そこでの内容を公開するのもできればしたくない。そうしたほうがいいとか、そうあるべきとかそういう話ではなくて、単に僕がそうするのが嫌なのだ。


 ただ、それとは別に、上に挙げたカミハルさんの記事の中で、あの記事を読んだ人に対して、ちょっと誤解を解いておきたいなと思う点がひとつあったので、今回はそれについて書く。
 誤解を解いておきたいなと思う点というのは、ぼくのスタンスというか、志向を「不可能性」という言葉でカミハルさんが言い表していることで、これはちょっと、いや全然違うように僕には思われるというか、これについては何かコメントしておかないと、黙認したことになってしまうわけで、なんというかそれは癪だなと思った。


 おそらくカミハルさんは、ふたつのそれぞれ違った次元における「不可能性」を混同したまま同じ用語で語ってしまっている。それぞれをなんと呼べばいいのかよくわからないけど、仮に「モチーフとしての不可能性」、「表現態度としての不可能性」というふうに言い表しておけばいいかと思う。あるいは「テキストに帰属する不可能性」と「作者に帰属する不可能性」とも言いうるかもしれない。
 「モチーフとしての不可能性」というのは、僕の言葉ではこれは「どうしようもなさ」みたいなふうに捉えられるものなのだけど、確かに僕はある種の不毛さ、諦念、「どうしようもなさ」を詠んだり書いたり歌ったりしたい人間で、そういう意味では僕は「不可能性」の人間だろうと思う。「可能性」に対置される「不可能性」という言葉がそういったモチーフを言い表すのに最適なのかどうかは置いておくにしても*1、少なくとも大筋では解釈として間違っていないように感じる。


 もうひとつの「表現態度としての不可能性」、これに関しては自分でこういう用語を製造しておいて言うのも何だけれど、そもそも語義矛盾があるように思う。表現行為と呼ばれうるものも含めて、実現可能なおよそすべての行為は「可能」の範疇に入るわけで、その「可能性」の範囲はすべて事後的に定義される。だから、これはあたりまえのことだけれど、実現した行為はすべて「可能」だったわけで、「不可能」な行為というものを未来方向に志向することもまた原理的に困難だ。だからそもそも「表現態度としての不可能性」というスタンスを取ることは不可能なのだ。僕だって短歌という枠組みを通じて可能性の範囲内のことを実現したいと思っているし、それ以外のことはできないだろう。
 実を言うとカミハルさんも、元記事の中で表現行為の態度としての「不可能性」のほうには全く言及していない。端的に言うと、カミハルさんは自らの表現行為の態度が「可能なものとその実現」というものであるとしていて、それに対して僕の関心が「不可避な現実」に向けられていると言っている。
 それらふたつの断定は個別には間違っていないのかもしれないけれど、今まで述べてきたように「表現行為の態度」と「モチーフへの関心」はそれぞれまったく別の次元の概念であって、本来それらは比較したり対比したりするのが不可能なものだ。表現における「誰に」あるいは「どうやって」と、「何を」というのは全く無関係なものでもないにせよ、何か同一の物差しに当てはめて比較できるものでないのは明らかだ。元記事がなまじ一見もっともらしい文体と構成であるぶん、こういうくだらないレトリックを弄するのはやめてほしいと思う。


 そのうえで、一応僕の思う僕自身の表現態度のようなものについても考えてみたい。なぜこのような誤解が生じたかについてもそれに少なからず関係がありそうな気がする。
 上でも述べたように、僕は基本的に「可能性」の範囲内のことを実現したいと思っているし、それ以外のことは「不可能」(あたりまえだ)であるとも感じている。それについてはカミハルさんと同じだと思うし、ほんとうにびっくりするくらいあたりまえの話なのでこのことはもう書かない。一方でカミハルさんが僕との間で何らかの「方向性の違い」を感じているとするのであれば、それは当然可能性の範囲内におけるベクトルの向きの違いなのだろう。それについては確かに少なからず心当たりがある。


 カミハルさんの方向性というか表現態度は、基本的には「届くべき人に届けたい」というスタンスであって、その状態のことを仮に「適配」と呼びたい。ある特定の言葉、一首の短歌、あるいは一冊の本という郵便が、予め想定された宛名どおりの相手にきちんと届いている状態だ。これは「言葉」という概念が我々の生存上の必要に応じて誕生して以来ずっと、普遍的に「言葉」に課され続けてきた役割であって、正しさでもあると思う。ものすごく単純化すると、Aさんに向かって後ろから「Aさん!」と呼びかけて、Aさんがこっちを振り向くという一連のプロセスが、言葉における「適配」の構図なのだろう。これはどんなに文章が長くなっても、どんな媒体を介在させようとも、宛先の人間がどんなに増えようとも、それが言葉である限り変わらない正しさの構図であるはずだ。


 しかし一方で僕は、上に述べたような「適配」の構図の、ある種の予定調和のような部分を好きではない。「適配」のプロセスを通じて人間同士の関係性が変化したりすることは無いだろうし、関係性を変えようという意思が無いというのは、世界を拡げる気が無いということでもあるように思われる。新たな出会いを拒絶しているし、衝撃を避けている。僕ははっきり言ってそんな韻文を読みたくない。他者を傷つけまいとして詩を紡ぐ意味がわからない。ほんとうにわからない。
 また、そういう優しさのようなものが、裏側では「そうでない人たち」をきわめて残酷なやり口で排除していることも知っている。


 それに対して僕が実現しようとしている状態のことを仮に「適配」に対する「誤配」としたい。「誤配」というのは文字通り宛先通りに言葉が届いていない状態だ。もちろんこれもまた「可能性」の範疇にあって、日常生活の中でもあたりまえのように言葉や情報の「誤配」は発生している*2。ただ、それが広く望まれていたかどうかの違いがあるに過ぎない。例えば8本の記事が掲載されている一冊の雑誌があったとして、読者にとって読みたいと思っていた記事が8本中2本であったとすれば、残りの6本の記事はその読者に対して「誤配」されたということになるだろう。もちろんその残り6本の記事も、それぞれ別の読者からは求められて存在しているとするならば、その別の読者の目に触れるとき、それは「適配」状態になる。このように「誤配」と「適配」の関係は固定的でなくめまぐるしく流動しうるものでもある。また、不特定多数に向けてばら撒かれる怪文書などのように、ほんの僅かな届くべき宛先へ「適配」させるべく、数撃ちゃ当たる式に膨大な数の「誤配」を起こしたりする例もある。
 要するに、僕は自分の短歌に触れた人のことを傷つけたい。見たくないものを突き付けたいし、知りたくなかったことを知らせたい。そのためにはモチーフに共感しない人達まで「誤配」される必要があるし、そのための方法はちゃんと考えてゆきたい。


 これはやや余談になるものの、「誤配」を引き起こすための有効な手段として、これまた独自の用語になってしまうのだけど、「混載」という手法があると思う。わかりやすいのは上に述べた雑誌の例だ。僕にとって稀風社というのはまず第一には楽しい遊びであったわけだけど、同時にそうした「誤配」を期待できるものにもなり得るかもしれないと思っていた。カミハルさんの短歌を読みたいはず人が、同時に僕の短歌にも触れるのであるとするならば、それは既に「誤配」で、そのとき世界は痛みとともに拡張されている。これは混載されているもの同士のベクトルが異なる方向を向いていればいるほど有効なはずだ。少なくとも理論上は。
 だから、悪い言葉でいえば僕はカミハルさんを利用しようとしていたとも言えるわけで、そのあたりの誹りは免れない気がする。しかし同時に、稀風社は解散するどころかもっと広がっていけばいいとすら思っているし、解散したとしてもそういうやり方はひとつの有効な手段として今後も見据えてゆきたいと思っている。



*1:ここで僕が留保をするのは、「どうしもうもなさ」の中には、「可能性」の範疇にあるもの、例えば「できてしまうこと」のようなタイプのものも含まれていて、この場合「できてしまう」の部分よりも「できてしまう」ことのほうが重要で、「可能かどうか」という軸は必ずしも抒情の本質を得てはいないのではないかという疑念が残るから。

*2:ツイッターとかの炎上なんて「誤配」の最たるものだろう。