iPhoneをなくしたひとの話

 22年も自分をやっていると、だいたい自分という人間が何をやるのかとか何をやらかすのかとかがだいたいわかってきて、正直アイフォーンをなくしたぐらいではあまりパニックになったりひどく落ち込んだりはしなかった。いつかそういうことをやるだろうと思っていたし、実際僕は22年の人生の間にいろんなものを落としたり失くしたり置き忘れたりしてきている。だからそういう歴史の延長線上にある出来事としてすんなりと「アイフォーンをなくした」という事実を受け入れることができたし、自分自身への失望がまたひとつ積み重なっただけだった。そういう予感があったというわけではないけど、事後的に「ああ、自分ならやりかねないな」というふうに納得できる範疇のこととして、頭の中ではわりとあっけなく処理されていった。


 こういうことは、仮に分かっていたからといって本質的な意味での対策は取りようがない。突き詰めていくと注意力の問題と言うか認識の問題と言うか、根本的には脳みその中の問題になってしまうと思うし、脳みそ自体に問題がある以上、それを同一の脳みそによって解決することは難しい。よく「これこれこういう意識を持つべきだった」みたいな反省の弁を聞いたりするけれど、「意識を持つ」ことを意識するというのは果たして可能なのか、そもそもそれは一体どういうことなのか、みたいなことをすごく思う。もちろんある程度はそういった認識の矯正も可能なんだろうけど、そういう無意識の領域の処理方法を強引に変えようとするのはかなりストレスフルなことで、多くの場合は割に合わないのではないかと思う。


 もちろん自覚を持つことで先回りして未然に食い止められている部分も、齢を重ねるごとに増えているのだと思うけれど、「未然に食い止めた」事故というのは当然可視化されないから、僕は年に数回のチョンボばかりを依然として強く認識することになる。小学生の頃なんかは週に2回は給食袋を持って行き忘れるか持ち帰り忘れるかしていたと思うし、体操服も忘れ、水着を忘れ、大切な紙をなくし、上靴を隠され、みたいなことが日常茶飯事だったような記憶があるし、それに比べたらかなり進歩しているはずなのだけど、そういう進歩にいったいどの程度の意味があるのかよくわからない。マイナスの幅を縮めたところで、マイナスであること自体は拭えていないし、拭いようがないんじゃないかという気がする。もちろんそのお蔭でなんとか社会生活を営めているのだけど、そのために無理がたたっている面はどうしてもあって、その割にべつに褒められるわけでもないし、むしろ叱責されるばかりだし、やっぱり努力を評価されないと僕も人間だしつらい。


 はっきり言って、僕がアイフォーンという常に携帯して持ち歩く類のものを、2年近くも紛失しなかっただけでむしろ奇跡で、というかそういうことにしておかないと身が持たない気がする。こんなことをいちいち気にしていたら比喩ではなく死んでしまう。死ぬにしたってせめてもっと重大なことに絶望して死にたい。


 あと、関係ない話としては、アイフォーンを紛失してからあきらめて買い替えるまでのおよそ3日半、開き直って自分だけ90年代の東京に暮らしてるつもりで生活してみたら、びっくりするくらい読書がはかどった。そりゃあ本も雑誌も売れたはずだと思った。結局のところ出版不況って要は可処分時間と可処分所得のシェア争いに負けたってだけの話なんだと思う。あと家事もはかどった。豊かさってなんなんだろうね。


 最後に、高円寺の西友のトイレでピンクのカバーのアイフォーン拾ったけど店にも警察にも届けなかったという人がもしいたら、今からでも遅くないから新幹線に轢かれろ。