サイトシーイング

抒情の方法論

ブログを書けないひとの話

 ブログを書けません。

 しかし、そもそもブログを書けないという言い方自体がおかしくて、ブログというのは書きたい人が書きたいことを書きたいように書くべき場所であって、書けないものを無理に書こうとする必要は全く無いはずです。書きたいもの、書くべきと自分が思うものを持っていないのに、形式としての「ブログ」を書くことを望むというのは、なんだかひどく奇怪な倒錯であるように思います。透明人間が服を着たがっているような、要するに順序が逆で、実態も本質もないのにガワのほうに拘るというのは、自意識めいた問題というか、対外的なイメージに拘るがゆえの問題なんだろうと思います。実際に書きたいことがあるかどうかは置いておいて、インターネット上の人格として「ブログ」を持っていたい。だから「ブログ」を作ってイメージに取り込みたいのだけれど、特に外に発信したことなんて何もないから、当然書けない。当初は無理をして記事を更新していても、すぐに放置状態になります。「書くために書く」ということ、それに限らず自己目的化した行為というのは長続きしません。インターネット上にはそういう自意識デブリのようなものが無数に散在していて、僕自身そういうものをいくつか作っては消してきました。
 ソーシャルネットワーク以前も以後も、インターネット上で独立の人格を獲得するには、「何か」を書き、そして公開しなければなりません。その「何か」は別にまとまった文章でなくてもよくて、写真でも音楽でもポエムでもブックマークコメントでもなんでもよいわけですが、兎にも角にも、前提となる「何か」、言いたいことや見られたいもの、漠然とした欲求と言ってもいいかもしれないものを持たずに、人格を手に入れるのはおそらく無理で、あるいはそもそもそうした「何か」無しに、人格を手に入れたいということはおそらく現在までのインターネットの中で、おそらくあまり想定されていないことだろうと思います。ソーシャルネットワーク以前と以後で、その「何か」欲求のハードルの高さがかなり変わったというのはあるだろうと思いますし、ハードルの低いほうのツイッターで、僕は長らく暮らしてきました。ブログを設けて長い文章を書き連ねるほどの「何か」はなくとも、「歯が痛い」とか「腰が痛い」程度の、即物的な「何か」ならいくらでも湧いてくるので助かっています。
 ともあれ、匿名基調の側のインターネットに於いては、「何か」を書くことなしには存在を許されないのです。この世界において、沈黙していることは存在していないことと同じなのです。この「何か」欲求と言うのは、自己顕示欲とも承認欲求とも呼びうるのかもしれないですが、それらのような手垢のついた言葉ではどうもうまく当てはまらないように感じるというか、リアルにそうした欲求の欠如に直面している人間としては、もっと根源的で根本的であるがゆえに漠然としている欲求なのではないかと思えてなりません。

 あるいは、「ブログを書けないひと」の類型として、インターネットにフロンティアを求めている、というのがあるのかなと思います。フロンティアをめざすのはいつだって、旧世界における負け組です。現実(リアル)とネットを峻別して、現実で人格を認められない人たちが、広大な未開拓地であるところのインターネット空間に希望を見出しているという構図で、残念ながらそうした大開拓時代というのは一部の成功例と数多の無言の屍を残して終わりつつあるわけですが、依然として現実側にはそういうフラストレーションとかルサンチマンを抱えている人たちが大勢いる以上、インターネットのフロンティアとしての魅力というのはそうそう薄れないだろうと思います。
 僕自身がそうなのですが、インターネット上の人格と現実の人格を切り離して捉える人、あるいは捉えてほしいという人の多くにとって、インターネットが主体性や人格を取り戻すためのフロンティアであるということ、あるいはフロンティアであったということは、なんとなくお分かりいただけると思います。僕はインターネット上でだいたい4年間くらい「すずちう」という統一人格?をさまざまなサービスの中で運用してきていて、4年間というのはそこそこな長さだろうと思うのですが、そのあいだずっと、この人格とリアルでの自分を接続させまいとして苦心してきました。リアルに接続させまいとなると、当然書いてはいけないことが増えてきます。この4年間というのは、ネット向けにも、あるいはリアル向けにも、それぞれ双方向に言えない秘密や嘘を積み上げて肥大化させていっただけの4年間だったのかもしれません。当初は書けていたけどだんだん書きづらくなってきたこととかも増えてきました。
 とはいえ、僕はこれだけの不便があっても、リアル社会とは別の人格をネットに構築することに拘って来ましたし、そのお蔭で手にした充足や幸福も少なからずあって、そうしたもろもろも含めた上での判断として、今日までずっとこの人格を存続させて来ています。僕の場合はもともと、リアルにそれほど深い人間関係は持っていなくて、それを切り捨てることにそれほどデメリットが無かったというのも大きいです。逆に不謹慎なこととか社会的にダメなこととか、ツイッターレベルでは言えることの幅はむしろリアルを切り捨てることで拡がったと言ってもいいと思います。
 僕にとってインターネットというのは、概ね開放的で快適な環境でした。どのあたりが開放的だったのかといえば、それはたぶん、対外的イメージを自分で主体的、選択的にコントロールできるという点でした。逆に言えば、リアル社会での僕はそれほどまでに他者の視線や他者が持つ僕のイメージを恐れていたということでもあると思います。僕の場合は、そうしたイメージの決定権を取り戻そうとしてインターネットに縋りました。そしてそれはおそらく、かなり内向きな動機でした。また、こういう動機を持ってしまうくらいですから、自己言及も苦手で、ネットですらも対外イメージを気にすることから離れることができていない状況なんだろうと思います。

 ブログを書けないという話に舞い戻ると、僕が伝えるべき「何か」を持っていないのは、おそらくインターネットに存在しようという動機の根本が、ひどく内向きで、外側に何かを発信しようというバイタリティには欠けていたという点がまずあり、その上リアルとの接触を避けると書けないことが多くなるという問題があるからで、自己言及にも拒否感があり、にもかかわらずイメージのガワとしての「ブログ」には憧れがある、という転倒した状況なんだと思います。
 いくつかのブログを読むと、率直にすごいなあと感じます。それらのどのブログにも、その人にしか書けないことが、その人にしか紡げない文章で書かれていて、そこにはどうしようもないほどの、その文章がそこにあることの必然性があって、僕はおそらくそういう必然性に憧れるのだと思います。必然性のある言葉を書きたい。必然性のある人格でありたい。

 しかし、無い袖は振れませんし、無い「何か」は発信できないのであって、結局のところ空虚な人間と言うのはどこへ行っても空虚な人間にしかなりえないんだなと思います。
 だから、このブログも開設してみたはいいのですが、次に更新されるとして、どんなことを書くのかは想像もつかないですし、ましてやこんな記事を書いてしまってはなおさらです。どうしよう。困った。