終わらせてしまわぬように知っている海の名前をひたすら挙げる (短歌の感想 その5)

久しぶりの更新ですが、5月の文フリの収穫本から一首。
今更感がすごいですが文フリお疲れ様でした。お蔭様で『海岸幼稚園』なかなか売れました。お越しくださった皆様ありがとうございました。

終わらせてしまわぬように知っている海の名前をひたすら挙げる
佐々木朔「往信」(『羽根と根 創刊号』(2014/羽根と根)所収)より

同人誌『羽根と根』より一首。


 「終わらせてしまわぬように」というのは何かこう、たとえば一方的に思いを寄せる人との会話だったり、とにかくこの瞬間、この関係性が一秒でも長く続いてほしいというような願いがあるのだろう。しかし、そうした思いとは裏腹に、作中主体の発話は視野狭窄ゆえに一方的に空回りして独り相撲になって、とうとう会話は袋小路に陥ってしまった。
 どういう経緯かはわからないが(たぶん作中主体もどうしてこうなったんだ……という気持ちだろう)、作中主体が話し相手に対して一方的に自らの知っている海の名前をひたすら列挙するということになってしまう。一般に自らの知識を一方的にひけらかすという行為は、会話の中で歓迎されない。その歓迎されない空気を作中主体もまた感じ取っているからこそ、彼は既にはっきりとした終わりの予感の中にいる。そして、海の名前が出てこなくなったら最後、この関係性は終わってしまうのだ。しかし彼にできることは、ひたすら己の知識の中に潜り、海の名前を拾い集めることしかもはやできない。ベーリング海アゾフ海、紅海、カリブ海……
 この歌はそうした終焉と敗北を宿命づけられた闘いの構図であり、またある種の不器用な人々にとっての青春のほろ苦い光景なのだろう。随分と深読みを試みてしまった気がするが、それは僕自信にとっても非常に身に覚えのある感覚がこの一首から呼び起こされたからだ。


 また、「知っている海の名前をひたすら挙げる」のような繰り返しの発話や行為というのは、それ自体が原初的な祈りや呪術に近いものだ。何かひとつの呪文や題目を繰り返したり、あるいはお百度参りなどのように同じ行為をひたすら反復するようなとき、それはある種のトランス状態をもたらし、発話や行為はそれ自体の意味を剥ぎ取られ、祈りとしての儀式性や呪術性を帯びるのかもしれない。上に引用した歌においても、作中主体は「知っている海の名前をひたすら挙げる」ことにより、よりいっそう視野を狭め自分の中の深みに陥り、皮肉なことに会話の相手の存在はどんどん遠ざかってしまうような印象を受ける。


 同じ作者の歌にはこのようなものもある。

朗読をかさねやがては天国の話し言葉に到るのだろう
佐々木朔「往信」(『羽根と根 創刊号』(2014/羽根と根)所収)より

 この歌も同様に、朗読という発話行為が、それをひたすら繰り返すことで本来の意味を剥ぎ取られ、何か別次元の高みに到るという神秘的な可能性を提示している。あるいは、そうした可能性を想起させるほどの、ひとつの美しい朗読の光景があったのだろう。こうした美しい瞬間に際して、それを写真的に瞬間を切り取ることで美を保存しようというのではなく、むしろその瞬間を繰り返しループさせ引き延ばすことで、いわば遠心分離器にかけるようなやりかたでその光景の美を抽出しようとするような手法であると言えるかもしれない。「至る」ではなく「やがて~到る」というのは時間的な意味での到達で、短歌定型の中にこうした遠未来的な時間の想像力を付与する鍵として機能しているように思われる。






 最後に蛇足になりますが、佐々木朔さんをお呼びして、本日(7/29)22時より稀風社配信をやります。よろしくお願いします。
 

子守の人間は来ないよ 綿棒を捻じ曲げると曲がることを知る (短歌の感想 その4)

 文学フリマお疲れ様でした。いろいろ思うこともあったけどそれはそれとして後で書けたら書く。

子守の人間は来ないよ 綿棒を捻じ曲げると曲がることを知る
ハチ (『メンヘラリティ・スカイ』より)

 今回の文フリも短歌のサークルが短歌の本をいっぱい出していたけど、短歌とは全然関係ない界隈の本になぜか掲載されていたハチ(@08dog)さんと木野誠太郎(@kinosei)さんの短歌連作「メンヘラリティ・スカイによせて」がわりと良かったので、たぶん界隈に顧みられないだろうなと思ったので久しぶりにここで取り上げたい。それにしても、なんでよせちゃったんだろう。背景はわからないけど全体的に不思議な本だなと思った。


 この本を通底するテーマとして「メンヘラ」というのがあるらしいのだけど、上に引用した歌はなんていうかいい意味で「メンヘラ」的な自意識を少しメタな視点で不愉快な感じじゃなく描けていると思う。
 「綿棒を捻じ曲げると曲がること」というのは当たり前のことで、たぶん想像力が人並みにある人だったら知ってなかったとしても予想できる類のことだと思うのだけど、そういう人並みの人にとっては当たり前のことでさえも、自分で試行して、学んでいかなければならない。なぜならそれは「子守の人間」が「来ない」から。
 「子守の人間」の有無というのは要するに外的環境で、外的環境/関係に恵まれなかったがゆえにそういう認知の仕方をしていかないといけないんだというようなことだと思う。そしてそういう自己をメタ的に認識している。だから「子守の人間は来ないよ」は言わば作中主体の心象における科白で、自分の境遇を自分自身に言い聞かせることで認識を強化させている、といった感がある。
 それでもこの歌には自嘲的な響きが薄くて、むしろ「知る」こと、人並みならば躓かない些細なことをひとつひとつ学んでいくということへの前向きな意識も同時に匂わせるような、どこかフラットな地点にうまく着地できているのがいいと思う。「ネガティブな自意識」をテーマに据えて自嘲的にならないのはたぶん結構難しい。


 もう一人の、木野誠太郎さんの作品は、ハチさんが「メンヘラ」に対して内側からのアプローチをかけているのに対して、表層からのアプローチを意識してるのかなと思って、その対比がなかなか面白かった。

避妊具の袋やぶりて0.02ミリの壁に染められし冬
木野誠太郎 (『メンヘラリティ・スカイ』より)



 上に引用した歌なんかは着眼点が面白いなあと思った。確かにコンドームの色に染まった男性器というのはなかなか異様なものだけれども、そこに「冬」が来ることで一気に身体感覚が一首全体に宿る感じがする。平たく言うと寒い。孤独だ。それを「壁」と形容したことも、「れいてんれい/に」のところで句跨ぎをしているのも張りつめた感覚を強化していて技巧的だと思う。「れいてんれい」なんかは音自体がなんか冷たいし、身体的な歌なのに冷たいモチーフしか出てこないのが良い。
 ただ、「やぶりて」にすごく作中主体の意志というか主体性が見られるのに対して、「染められし」という過去に対する客観的な描写になってしまっているのはすごくバランスが悪いと思う。同じ身体が現在と過去に切り離されてしまったかのような居心地の悪さを覚える。「やぶりて」を生かすのであれば結句は「染められよ」とかにしたほうが一貫していると思うし、逆に「染められし」の客観のほうを生かしたければ、二の句は「やぶれば」程度に留めて身体を突き放してあげた方が良かったんじゃないかなと言う気がする。
 

第17回文学フリマ告知

 サークル名「稀風社」で今回も出展します。新刊は『稀風社の薄情』です。薄い本なので薄情です。内容は主に短歌をめぐるリレーエッセイで、自分も短歌について、というよりも「稀風社」についての文章を寄稿しています。頒価は300円の予定。


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 表紙は.あいあ(@dot_aia)さんが描いてくれました。「『薄情』なので薄情な女の子をください」と無理難題をふっかけたらほんとに薄情な女の子が出てきたので、やっぱり.あいあさんは天才だ!どこかのお金持ちに.あいあさんのパトロンになってあげてほしい!と思いました。すばらしい。


 また、今回は新刊本既刊本どれでも1冊以上お買い上げの方に、僕と三上春海さんと情田熱彦さんの短歌を掲載した、稀風社ブックカバーとしても使えるフリーペーパーをさしあげます。ブックカバーを作るのは僕の小さな夢のひとつだったので、出来栄えが今から楽しみです。要らないと言う人には無理に押し付けたりはしません。
 画像小さいですがだいたいこんな感じのやつです。
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 ブースはウ‐33です。詩歌ジャンルの密集地帯です(怖い)。
 当日は僕と三上さんと情田熱彦さんと.あいあさんが入れ替わりで誰かしらブースにいる予定です。宜しくお願いします。

父が以前住んでましたと言いかけてやめて鍋へとなだれるうどん (短歌の感想 その3)

父が以前住んでましたと言いかけてやめて鍋へとなだれるうどん
中村美智 (『北大短歌 創刊号』より)

 4月14日の文学フリマで買った本をちまちま読み進めている。その中から一首。


 複数人で鍋を囲む座の光景が浮かぶ。「うどん」が鍋へと投入されるということは、その座も佳境に差し掛かっていると思われる。ふいに話題はどこかの街や地方のことに及び、そこに作中主体は「父が以前住んでました」と口を差し挟みかけて、でもやっぱり口に出すのをやめてしまう。複雑で膨大なコミュニケーションの網の目の中にあって、決して表出することのない、コミュニケーションの澱のような内的な事象が詠まれていて面白い。「住んでました」と丁寧語が用意されていることからして、その座には先輩後輩とか教師と教え子とか、既にフラットでない関係性(社会)があるのだろう。
 「父が以前住んでました」ということを結果的に言わないという選択がなぜ導き出されるかといえば、やはりそれはその事実を提示したところでそこからの話題の広がりに欠けるからだろう。単純に耳に入った何らかの地名から作中主体にとってはすぐさま連想されることであっても、その情報が今いる座にとってどんな意味があるのか、どういう効果を与えるのか、ということを口から出す前に一旦咀嚼したうえで、言わないことにしているのだ。こういうコミュニケーションへのメタ的な感覚というのを世の中の人たちがいったい何歳ぐらいで身に着けるのかよくわからないけれど(僕はすごく遅い方だったと思う)、作中主体の精神年齢のようなものを窺い知ることができる。
 座の全景を見渡せる一方で、そこから切り捨てられていく澱のような思考たちをすぐさま忘れ去ることができないというような、そういう過渡期のような時期はたぶん誰しもあるんじゃないだろうか。それは人が成長していく中ではきわめて短い一時期で、人の一生の中ではきわめてレアシーンとでもいうような瞬間が、うどんが鍋へとなだれ込む一瞬のイメージとともに切り出されている。


 また、口語体の短歌において、科白にあたる部分にカギカッコをつけるべきかとか、そういう短歌における記号の使い方全般の話として、この歌では“父が以前住んでました”がカギカッコで囲われていないことが効果的に作用していると思う。
 カギカッコで囲われた科白というのは、散文的というか、作中主体を経由していない、詠み手による直接的な情景描写、あるいは説明というふうに読まれてしまう。例えば、

「酔ってるの?あたしが誰かわかってる?」「ブーフーウーのウーじゃないかな」
穂村弘『シンジケート』より

とかが会話体の歌として有名だけれど、この歌の良し悪しはさておき、カギカッコがあることで、歌の外側にどうしても情景の観察者、あるいは創作者としての詠み手の存在が透けて見えてしまう。
 “父が以前住んでました”がカギカッコで囲われていないということは、それが実際に発話されていないということもあるけれど、それ以上に、「一度作中主体の内部に取り込まれてから、改めて想起されている」という読みにうまく導けていると思う。この歌全体が同時進行的な情景描写なのか、あるいは事後的な記憶の想起なのか、という違いは、この歌のニュアンスを大きく変えるだろうし、僕はこれを「想起」として読んだほうが味があっていいなと感じる。
 初句の字余りはそれほど気にならない。「言いかけて/やめて」で句を跨いでいるのは技巧的だし、「やめて鍋へとなだれるうどん」の下の句もすごくなめらかで気持ちがいい。

NoFuture,NoFutureと口ずさむ白いベースを売りにゆく道 (短歌の感想 その2)

NoFuture,NoFutureと口ずさむ白いベースを売りにゆく道
遠野サンフェイス『ビューティフルカーム』より

 遠野サンフェイスさんは主にツイッターtmblrなどで短歌を発表されていた(現在は休止中?)方で、私家版の写真歌集『ビューティフルカーム』は、単語カードの形態で2011年6月の文学フリマで頒布されていたもの。さらに作者の背景を遡れば下品短歌とかそういう文脈がいろいろ出て来るがここではその説明は省きたい。


 上に引用した歌は青春の歌だ。
 まず際立つのは「NoFuture,NoFuture」の引用の巧さで、これはむろんSEX PISTOLSの「No Future」なのだけれど、短歌全体の中で引用された歌が有機的に機能していてとても綺麗だと思う。さらにいうとこの「白いベース」はおそらくシド・ヴィシャスモデルのフェンダー・プレシジョンベースで、たぶんそんなに高いわけでもない、どこにでも売っているような楽器だ。そういうところまで含めて、とても端正で無駄のない、一首全体の中で強い必然性を持ち得ている引用だと言えるのではないか。その「白いベース」を売りに行く。要するにありふれた青春の、ありふれた終幕だ。
 けれども、「No Future」という詞とは裏腹に、青春という物語が幕を下ろしても、その先には茫漠とした人生の余白が続いていく。「白いベースを売りに行く道」はその茫漠とした余白へと連なる道で、作中主体はその終わりのない平坦な未来を目視しながらも、そこへと向かってただぼんやりと歩んでゆくしかない。そこには前向きな覚悟というよりも、受動的な諦念を強く感じる。口ずさまれる「NoFuture~」もまた、どこか物悲しい風景を象っている。

ねえ僕は夕映えによく似合うこの曲をいつまで歌うのでしょう
遠野サンフェイス『ビューティフルカーム』より

 思うに、青春というのはきっと、それを自覚した瞬間に終わってしまうようなものなんだろう。だからそこには常に特権性があって、ノスタルジーがある。
 
 

父といて父はるかなり春の夜のテレビに映る無人飛行機 (短歌の感想 その1)

父といて父はるかなり春の夜のテレビに映る無人飛行機
寺山修司未発表歌集 月蝕書簡』寺山修司(田中未知編)より

 これから読んだ短歌の感想をちょくちょくブログに書いていきたい。


 いきなり上に引用した歌ですが、寺山修司晩年の未発表作品。「父」というモチーフは「故郷」や「母」などと同じくらいには寺山作品にありふれたモチーフだけれども、晩年の作ということも考えると「父」にも単なる対象として以上に複雑なニュアンスがこもってくるのかなという気がする。同じく『月蝕書簡』には

地の果てに燃ゆる竃をたずねつつ父ともなれぬわが冬の旅

というような歌も収録されているし、「父といて~」にも同じく「父」へと投影される部分があるのかもしれない。


 「父といて父はるかなり」というのは実体としての距離と心理的な距離とのギャップがあるということなんだろう。「父」がそこにいるはずなのに虚ろで遠い存在に感じられる瞬間、「父」という強固であるべき概念がぐらつくような一瞬というのは、(子)の側から見るとわりと普遍的な主題だし、ともすると寺山修司らしくないような感じもする。人が育っていく過程のどこかで、親というのが絶対的な存在から相対的な存在へと変わっていく、その過渡期の光景なのかもしれない。
 その実体があっても存在が虚ろな「父」に、「テレビに映る無人飛行機」が重ねられている。「テレビに映る」「無人」というのは二重の距離感で、そこに見えるのに触れないこと、人間が不在、あるいは枠外のどこか遠くに存在していること、というような感覚だろうか。また、この「テレビに映る無人飛行機」というモチーフ自体がどことなく70年代的で、いわゆる「うたのわかれ」以前との世相的な意味での違いが反映されているのかもしれない。
 ただ、ちょっとよくわからないのが、「春の夜の」という時候を限定する表現が全然歌の中で生きていないような気がするところだ。「春の夜の~」がかかるのはテレビ(の中の映像)だから、それによって無人飛行機のいる空間における時候が決定するわけではないし、逆にいつの季節のテレビであろうが、そこに映し出される無人飛行機の映像に違いが生じるわけでもない。だからこの繋ぎの部分だけ歌の中でぽっかり浮いてしまっていて、不思議な感じがする。何かこの部分に元ネタがあるのか、もしくはある種の時事ネタ的な要素としての必然性があったのか、知っている人がいたら教えてください。


 そういえば「実体としての距離と心理的な距離とのギャップ」といえば紀野恵の「不逢恋逢恋逢不逢恋~」というあれもそうで、「逢不逢恋(あふてあはぬこひ)」というのは字面通りに受け取るとやっぱりそういう、「実体としてそこにいるのに心理的な距離が遠い」ということだし、身も蓋もない話をすると、こういう普遍的な抒情をどういうふうに料理するかみたいなところに、短歌のすごい人のすごい部分があるんだろうというような気がする。


寺山修司未発表歌集 月蝕書簡

寺山修司未発表歌集 月蝕書簡

いつか誰かに話したことの焼き直し

 世の中には類友の法則とかいうのがあって、それはインターネットでも例外じゃないどころかインターネットではむしろ加速されるせいで、社会生活を営むのにに何らかの問題がある(自称)人とばかり知り合って交流を深めていってるブログ5年目ツイッター4年目の現状があるのだけど、そうするとだんだんと、いわゆる「コミュ障」の類型が、自分のそれも含めてわかってきたような気がする。


 もう少し具体的に言うと、「コミュニケーション能力」とかいう用語には2つのレイヤーがあって、それを混同してしまうと全般的な能力の低い人は社会生活を営めないスパイラルに陥ってしまうんじゃないかみたいなことだ。「全般的に能力の低い人」ってかなり酷い言い方な気がするけど、少なくとも専門家でもないのにときとうな病名とか障碍を当てはめてどうこう言うよりかはましなんじゃないかと思う。
 単純労働が駆逐され知的労働と感情労働だけが残されつつある現代社会の中にあって、「コミュニケーション能力」とかいうけったいな概念は人間が社会的に生存していくための必須の力とされているわけだけど、この「コミュニケーション能力」にはおそらく2つの側面があって、これがときに無自覚に、ときには意図的に混同されてるせいでいらぬ苦しみを抱いている人って多いのではないか。その2つの側面というのは、

① 情報を適切に伝達する能力

② 相手に好感を持たれる能力

のふたつで、これらは本来全く別の技能であるはずだ。
 おそらく定型発達の人はナチュラルに双方をうまいこと備えているせいで、このふたつの異なった能力のことを無自覚に混同して語ったり求めてたりしてしまうのだと思うのだけど、②を備えていない、原理的にほとんど備えることのできない人が②を求め続けて空回りして、結果的に①さえもうまくいかなくなってしまうみたいなことがよくあるのではないかと思う。②の影を求める過程で自分への失望を繰り返して①を遂行するために必要な最低限の自尊心みたいなもの(これはもっとうまい言い方がある気がする)を失くしてしまうみたいな、そういう負のスパイラルが全般的に能力の低い人界隈にわりと蔓延している気がする。
 異論はあると思うけど、僕の考えでは②は社会生活を営む上で必須の能力ではない。少なくとも①よりははるかに重要性は低いはずだ。むろん、①の能力も、界隈の人にとって獲得することが容易い能力では決してないのだけど、②よりはまだ訓練によってどうこうなる部類だと思う。我々は、生き残るために②を捨てて①を取りに行くべきなのだ。
 例えば①の中には「不文律を理解する」とか「ジェスチャーを読み取る」みたいな力も含まれているのだけど、別にわからないことは「今のそれ、わかりません」と言ってしまえばいいのだ。結果的にそれできちんと情報をやりとりできるなら、それでいい。それによって多少疎まれようとも知ったことではない。「②を捨てて①を取りに行く」というのはそういうことだ。コミュニケーションによって相手に好感をもたれることへの期待を放棄することによって、皮肉にもコミュニケーション自体は格段に楽になる。それはおそらく今まで②のほうに脳みその、ただでさえ限られているリソースの大半を割いてしまっていたからなのではないかと思う。


 べつに人間は、好かれなくても、嫌われようとも生きていける。たとえそれによって周囲に嫌われようとも、情報伝達の連関の中に加わることができさえすれば、社会的に生きていくことが可能で、社会的に生きていくことによってお金が得られるし、お金によって尊厳ある生を生きることも可能になると思う。もちろん②を欠いていることによって付きまとう問題、例えば友達ができないとかそういう人生の問題は温存されたままなのだけど、少なくとも読めない「空気」を読もうとしてずっと空回りするよりはだいぶましなんじゃないかと思う。言わば、「空気を読めない」から「空気を読まない」へのシフトだ。
 見えないものを見ようとしたり、できないことをやろうとしても、人間は幸せになれないんじゃないか。少なくともできもしないことに固執して終わる人生なんてあまりにも無駄すぎる。